マルセル・デュシャン展
横浜美術館で始まったデュシャン展をみてきた。これまでみたデュシャンの作品は少ない。NYのMoMA、グッゲンハイム、パリのポンピドーにあるキュビズム風の絵と自転車の輪のオブジェくらい。本物をあまり見てないのでモノグラフも読んでない。
そんなわけで、この作家のヒストリーについての知識なしで、期待の代表作“階段を降りる裸体No.2”を観た。裸体の描き方はキュビズムそのもの。時間の経過を連続した裸体の動きで表している。未来派のボッチョーニの絵と似ている。
だが、階段はあまりデフォルメせず描いている。最初の裸体に顔らしきフォルムをみつけ、
ちょっと安心する。キュビズムは原型をとどめないので見るのに苦労する。
右の作品は裸体と共に一番みたかった“大ガラス”。これはフィラデルフィアに
あるオリジナルの東京ヴァージョン(1980)。透明ガラスに水車や鋳型やデフ
ォルメされた花嫁などが描かれている。立体感があり、おもしろい表現方法
である。題名は“彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも”とついて
おり、7つのパートはひとつのストーリーを構成してるようだが、このあたりは
よくわからない。
最後の展示コーナーに、デュシャンの作品制作について語ったことがプレート
に書いてある。“私はなにか新しいことを生み出そうとしたわけではない。制作
するのに思い悩んだこともなく、神経衰弱になったことも無い。私の作品は生
きてることなのだ”。難しいことを考えて、ひねりだしたものでもなく、生活の中
からふと出てきたのだから、観る人も肩の力をぬいて、あまり考え込まない
でみてくれ、と言ってるように思える。現代における芸術、美術のあり方の本質
をズバリついている。
今回の展示法は横浜美術館のやり方なのか、デュシャンの作品と他の作家
のものをペアでみせている。例えば、デュシャンの“自転車の車輪”には久保
田成子の3つの車輪が電動モーターで動く“デュシャンピアナ”がある。各作品
の対比がうまくいっている。ビッグネームのデュシャンと競演している作家の
作品がデュシャンに負けることなく、主張がこちらに伝わってくるのがいい。
モナリザに髭をつけパロデイーを楽しんだデュシャンが今度は後に続く作家に
パロデイーの対象にされている。アートの精神を先取りしたデュシャンだから、
その作品が多くの作家の創作活動を刺激したのだろう。
森村泰昌の画家の絵の中に衣装をまとって入りこむ作品はモナリザの髭とデュ
シャンが女性人格“ローズ・セラヴィ”に変装したことからヒントを得たに違い
ない。絵をいじくるのではなく、自分が絵に入るという発想がユニーク。この森村
の作品“たぶらかす”がいくつもあった。また、横尾忠則のコラージュ作品“あな
たは善意の人ですか?”は色鮮やかで楽しめる。
この展覧会はデュシャンの作品だから、感じるより考えさせられるのかと思って
いたが、会場にいるとこの心配は消えた。ただ、現代芸術のまっただ中なの
で、この作品はどうなってるの?と戸惑うのもある。こういう展覧会は気楽にみ
るに限る。こちらが考え込んだらデュシャンに申しわけない。アートの見方をデュ
シャンに教えてもらった。
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