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2025.04.30

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート!義満・義政

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‘足利義満像’(重文 室町15世紀 鹿苑寺)

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金閣寺(1955年)

Img_0001_20250430230901   ‘足利義政像’(相国寺)

Img_0003_20250430230901   銀閣寺(1489年 国宝)

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東求堂同仁斎(1489年 国宝)

修学旅行の行先が京都だとハイライトの観光名所はなんといっても金箔の輝
きが目の焼き付く金閣寺。誰が建てたかというのはしっかりインプットされ
る。室町幕府の3代将軍足利義満(1358~1408)。その後、美術鑑
賞が趣味になるとか旅行が最大の楽しみとならないかぎり、この金閣寺物語
に情報はくっついてこない。

15世紀の初め、義満が没後まもないころに描かれた肖像は僧侶姿だった。
これは1395年に出家しているため。出家の狙いは世俗を超越した存在と
して君臨することであり、1402年明の皇帝より‘日本国王’の称号を受ける。

14世紀に成立した明王朝、義満は遣唐使の廃止以来500年ぶりに公式の使節を送った。この朝貢貿易により皇帝に日本の品々を献上するかわりにそれ以上の莫大な返礼を手にする。義満は手に入れた宋時代の絵画や陶磁器(唐物と呼ばれる)を天皇や公家たちにみせる部屋、会所を北山につくり自らの力を誇示した。これは宋王朝の皇帝だった徽宗のやり方をそっくり真似たのである。

8代義政(1436~1490)も義満同様、唐物に対してなになみならぬ執着を抱き、同朋衆に文物の管理をさせ東山につくった邸宅で心ゆくまで楽しんだ。銀閣寺は修学旅行の行程に入っていないので社会人になって出かけた。静寂に包まれた感じがすごくあり大変惹かれた。そして、東求堂同仁斉には付書院と棚が設けられており、これが書院造の原型。

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2025.04.29

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 菅原道真

Img_20250429234601   国宝‘北野天神縁起絵巻(巻六)’(13世紀前半 北野天満宮)

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 ‘束帯天神像’(14世紀 常盤山文庫)

Img_0003_20250429234601   歌川国貞の‘大当狂言之内 菅丞相’(19世紀 ベルギーロイヤルコレクション)

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勝川春章の‘5代目市川団十郎の菅丞相’(1775年 東博)

学問の神様、菅原道真(845~903)は受験シーズンには各地の天満宮で合格をアシストしてくれる有難い存在となる。実在の人物が神となり、1000年以上にわたって日本人にあまねく知られているというのは、そうはない。怨霊から神へを転じた道真の話がよくわかるのが鎌倉時代につくられた‘北野天神縁起絵巻’(全8巻)。

もっとも目に力が入る名場面が描かれているのが巻6の‘天神の眷属が清涼殿の公家たちに襲いかかる’。藤原時平の陰謀によって大宰府に左遷された道真は死後、雷神となって京の都に舞い戻り、清涼殿に落雷をもたらす。どす黒い雲のなか筋肉質の雷神が褌姿で大暴れ、その絶大なパワーは逃げまどう公家たちは宙に放りあげ、きりきり舞いさせている。この漫画チックな描写がおもしろい。

神(天神)となった菅公は神像が数多く描かれた。平安貴族の束帯姿で描かれたものを束帯天神というが、怒りの表情がとりわけ強く表れているのが神奈川の常盤山文庫にあるもの。神になっても穏やかな顔にはなれないのである。‘怒りの天神’とも呼ばれている。

浮世絵の役者絵に登場する菅丞相にインパクトの強いのがある。ベルギーロイヤルコレクションが里帰りした特別展で度肝を抜かれたのが歌川国貞(1786~1864)の‘大当狂言之内 菅丞相’。これをMy好きな国貞のトップに登録している。そして、‘菅原伝授手習鑑’で道真を演じる5代目市川団十郎を描いた勝川春草(1743~1792)の絵も目に焼き付いている。

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2025.04.28

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート!木喰・山頭火

Img_20250428231401   木喰の‘自身像’(1801年 日本民藝館)

Img_0002_20250428231401   木喰の‘地蔵菩薩’(1801年 日本民藝館)

Img_0001_20250428231401   池田遙邨の‘うしろ姿の 山頭火’(1984年 京近美)

Img_0003_20250428231401   池田遙邨の‘まっすぐな 山頭火’(1986年 倉敷市美)

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‘種田山頭火の句碑’(鵜戸神社)

日本民藝館へよく足を運んだお陰で普通の職人がつくったやきものや漆工な
どの素朴な美に惹かれるようになった。そして、柳宗悦(1889~
1961)がはじめた民藝運動に協力した河井寛次郎や濱田庄司、バーナー
ド・リーチのやきものを数多くみることができた。

彫刻でもすごい人物に出会った。江戸後期に各地で木彫の仏像をつくった
木喰(もくじき 1718~1810)。山梨県で生まれた木喰が仏像をつ
くりはじめたのは60歳をすぎたころで、93歳でなくなるまでに千体を超
す像をつくった。その‘微笑仏’と呼ばれる仏像を発見したのが柳宗悦。大正
13年(1924)、山梨で偶然目にし、強く惹かれた。それが‘地蔵菩薩’。

これも‘自身像’も目を細め、頬を大きくふくらませ口元に笑いをたたえる表情がじつにいい。いっぺんに嵌った。これまで運よく2度回顧展に遭遇したが、このほほえみ仏に毎年でも会いたい思いはとても強い。古い日本映画を観ていると、祭りやお酒の席でこんな満面の笑みをうかべた爺さんが登場することがよくあり、こちらまでいい気分になる。

昨年、宮崎旅行をしたとき、日南市の鵜戸神宮を参詣した。御社殿の前に広がる奇岩に激しくぶちあたる波しぶきに圧倒され、まるで東尋坊を連想させる絶景が宮崎にあったのかと大感激だった。その景色を心に焼きつけ集合場所に戻る途中、思わぬものが目にとまった。ここを訪れた漂泊の俳人・種田山頭火(1882~1940)の句碑、‘鵜しきりに啼いて何を知らせる’。

三十代で山頭火の句と出会った日本画家の池田遙邨(1895~1940)は小野竹喬の‘奥の細道句抄絵’に刺激され‘山頭火シリーズ’をはじめ、全部で28点制作した。お気に入りはススキが強い風になびく枯野を一人行く山頭火を描いた‘うしろ姿のしぐれてゆくか 山頭火’と‘まっすぐな道でさみしい 山頭火’。

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2025.04.27

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 松尾芭蕉

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  与謝蕪村の‘奥の細道図屏風’(重文 1779年 山形美)

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  伊藤若冲の‘松尾芭蕉像’(1798年)

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  小杉放菴の‘奥の細道 那須野’(20世紀 出光美)

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  小野竹喬の‘奥の細道句抄絵 五月雨を’(1976年 京近美)

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  小野竹喬の‘奥の細道句抄絵 あかあかと’(1976 京近美)

世の中には毎日仏壇にむかってお経をあげる人が大勢いると思うが、最近これ
がヒントとなってあることをしてみようという気になっている。それは好きな
歌人の和歌とか歴史上の人物の辞世の句、俳句などをメモなしで詠むこと。
目標は50くらい暗記して、それを毎日5つ詠み週単位でローテーションして
いく。子どものころ家族で百人一首のかるたとりをしたから、有名な和歌は
すでにだいぶ覚えており、俳句を加えるとラインナップはつくれそう。

そのなかにはもちろん松尾芭蕉(1644~1694)の俳句も欠かせない
ピースとして入ってくる。今、手元に芭蕉の本はないが、絵画鑑賞のお陰で絵
画化された芭蕉の物語は目に馴染んでいる。俳人、与謝蕪村(1716~
1783)は芭蕉の‘奥の細道’をたどる行脚を敢行し、巻物や屏風に何点も描
いている。山形美を訪問したのは念願の‘奥の細道図屏風’をみるためだった。
‘奥の細道’の全文を書き、挿図9図が配されている。

蕪村と同じ年に生まれた伊藤若冲(1716~1800)にも芭蕉の肖像画が
ある、これまで縁があったのは3点。どれも似た表情をした構図で、これは亡
くなる2年前の寛政十年に描かれたもの。小杉放菴(1881~1964)は
‘奥の細道 那須野’のほかに‘奥の細道十二題’を制作しており(ともに昭和年代
の作品)、明治以降に活躍した日本画家では芭蕉とのむすびつきが強い画家。

生来のカラリストぶりとモダンな造形が心に響くのが小野竹喬(1889~
1979)の‘奥の細道句抄絵’(10点)。最晩年の作品で東北地方へ取材旅行
をして、この傑作が生みだされた。上が有名な俳句‘五月雨をあつめて早し最上
川’で、下は最も気に入っている‘あかあかと日は難面もあきの風’。

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2025.04.26

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 西行

Img_0003_20250426233401   俵屋宗達の‘西行物語絵巻(第1巻)’(重文 1630年 出光美)

Img_20250426233401   俵屋宗達の‘西行物語絵巻(第4巻)’(重文 1630年 出光美)

Img_0004_20250426233401   ‘西行物語絵巻’(重文 13世紀 文化庁)

Img_0002_20250426233401   小杉放菴の‘西行法師’(20世紀 出光美)

Img_0001_20250426233401   鈴木春信の‘見立富士見西行’(1765年 ボストン美)

帝国劇場の隣にある出光美はお気に入りの美術館にひとつで、その好感度の高さは長く維持されている。絵画では国宝の‘伴大納言絵巻’があるし、やきものも名品がずらっと揃い、板谷波山のコレクションでも有名。昨年は池大雅の回顧展で目を楽しませてくれた。

琳派は俵屋宗達、光琳、抱一、其一など自館の所蔵品で琳派展が行えるほど充実しているが、宗達の‘西行物語絵巻’も作品の構成欠かせない重要なピース。平安末期の天才歌人、西行法師(1118~1190)は鳥羽院の北面の武士として佐藤義清を名のっていたが、23歳のとき友人の死を契機に出家し、名前を西行に変え漂白の歌人として生きる。

他館の琳派展に貸し出されることの多い‘第4巻’では丸顔の西行が武蔵野の原で老僧に出会う場面が描かれている。横長画面に鹿や草花を配し装飾的に仕立てており、琳派の特徴がいかんなく発揮されている。ところがこれがインプットされた後、第1巻にでてくるショッキングな場面に遭遇する面食らう。西行は不意に出家を決め、慕い寄る幼い娘を縁側から蹴落とすのである。あれ―!佐藤のお父ちゃんは俗世間におさらばするんだと興奮し、完璧に幼児虐待モード。人が変わったみたい。

文化庁にある‘西行物語絵巻’は家族と別れた西行は桜をもとめて吉野山に行くが、春の到来は遅くまだ雪の残る山へ分け入るところが描かれている。小杉放菴(1881~1964)の絵は西行がようやく満開の桜に出会う場面。そこで詠むのが有名な歌、‘願はくは花の下にて春死なむその二月の望月のころ’(できることなら春、桜の花の下で、お釈迦様が入滅された二月十五日の満月のころに死にたい)。鈴木春信(1725~1770)の‘見立富士見西行’は三保の松原あたりで富士山を仰ぎ見る西行の姿を遊女が衝立に描かれた富士を眺めるという場面に置き換えて表現している。

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2025.04.25

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 浦島太郎

Img_20250425231501   山本芳翠の‘浦島’(1893~95年 岐阜県美)

Img_0001_20250425231501   鈴木春信の‘見立浦島’(1765年 ボストン美)

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Img_0003_20250425231601   河鍋暁斎の‘浦島太郎と鶴亀’(1887年)

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小杉放菴の‘浦島’(1947年 小杉放菴記念日光美)

洋画家の想い出に残る回顧展が昨年の後半と今年前半にあった。その画家は
岐阜県美で行われた山本芳翠(1850~1906)と茨城県近美まで足を
運んだ中村つね(1887~1924)。そして、つい先日嬉しい情報が
とびこんできた。大阪中之島美で今秋に開催される‘小出楢重展’(9/13~
11/24)は見逃せないので大阪へ出かけようと思っていたが、なんと府中
市美に巡回する(12/20~3/1)ことがわかった。これは有難い。その
あと‘長沢芦雪展’(3/14~5/10)が続くというのだから、府中市美に
乾杯!である。

芳翠の代名詞のような作品が大作の‘浦島’。はじめてお目にかかったとき、
ええー、浦島太郎が美形の女性として描かれている!?だった。まわりにい
る美女揃いの侍女たちとなんら変わらないからうっとり眺めていた。だから、
亀の甲羅にのせている男の足には注意がいかない。小さい頃聞いた長寿の
象徴である浦島太郎が大人になってこんなイメージと違う姿で飛び込んでく
るとは。これこそが芸術の力。

鈴木春信(1725~1770)の‘見立浦島’は鋭い目をした亀に乗った振袖の娘が釣竿を担いで竜宮城へ向かう姿が描かれている。春信はモチーフの動的描写が天才的に上手いから、つい‘行ってらっしゃい’と声をかけたくなる。これは2017年千葉市美で開かれたボストン美蔵の里帰り展‘鈴木春信’で遭遇した。本当に春信の楽しみは長きにわたって続く。

芳翠の浦島と違いすぎるのが河鍋暁斎(1831~1889)の‘浦島太郎と鶴と亀’。長寿を祈念するめでたい画題がならんだ三幅対だが、真ん中に朝日に鶴があるのは元は浦島と亀の双幅に後で鶴の図を加えたから。長生きをした浦島太郎の話がぴったりくるのは小杉放菴(1881~1964)の絵。飄々とした感じがいい。八王子まで遠征した甲斐があった。

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2025.04.24

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 日蓮

Img_20250424224801   長谷川等伯の‘日蓮聖人像’(重文 1564年 大法寺)

Img_0002_20250424224801   葛飾北斎の‘七面大明神応現図’(1847年 妙光寺)

Img_0001_20250424224801   歌川国芳の‘高祖御一代略図 佐州塚原雪中’(1836年頃)

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横山大観の‘日蓮上人’(1910年 東博)

ブックオフへ出かけて映画のDVDを手に入れることに時間をさかなくなっ
ているが、展覧会めぐりをするときはなるべく入店することをしている
(‘犬も歩けば棒に当たる’があるので)。追っかけリストに書き込まれてい
る日本映画のひとつが宗教関係のもの。空海の物語が映画になった情報に接
したことがあるが、具体的なタイトルがでてこない。

そして、日蓮(1222~1282)については東映の古い映画にあったよう
な気がしているので、店の棚に並んだ作品をしっかりみている。また、NH
Kの大河ドラマに日蓮がとりあげられた記憶があるが? 間違い?

日蓮はビッグネームの画家たちが描いている。法華信徒でもあった長谷川等伯
(1539~1610)の描いた‘日蓮聖人像’は2010年東博であった決定
版の回顧展でお目にかかった。その強い目力が心に深く刻まれた。
日蓮宗の熱心な信者だった葛飾北斎(1760~1849)の‘七面大明神応
現図‘は8年前大阪のあべのハルカス美で開催された‘北斎ー富士を超えて’で
運よくみることができた。長く縁がなかったので大収穫だった。

北斎と同じく信者だった歌川国芳(1797~1861)は
日蓮の事跡を主題にした‘高祖御一代略図’(全10図)を描いている。そのな
かでじーんとくるのが佐渡流罪を描いた‘佐州塚原雪中’。死人捨て場であった
塚原の草庵に蟄居となった日蓮は雪の降り積もる中を死者のために題目を唱
えながら進んでいる。横山大観(1868~1958)の‘日蓮上人’は今年の
1月末東博の平常展で久しぶりに出会った。 

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2025.04.23

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 法然・親鸞

Img_0003_20250423230501    ‘法然上人像’(14世紀 知恩院)

Img_0002_20250423230501   国宝‘法然上人行状絵図’(14世紀 知恩院)

Img_0001_20250423230501   国宝‘親鸞聖人影絵’(13世紀 西本願寺)

Img_20250423230501   ‘本願寺聖人親鸞伝絵’(重文 1343年 東本願寺)

定期的に開催される宗教関連の特別展は日本史を深く知る機会ととらえ見逃
さずに足を運んできた。図録は欠かさず購入し、時間をかけてじっくり読ん
でいる。どんな人物にスポットが当たったかみてみると、
☆2003年 ‘西本願寺展’   (東博)
☆2003年 ‘大日蓮展’    (東博)
☆2003年 ‘鎌倉禅の源流‘  (東博)
☆2003年 ‘空海と高野山’  (京博)
☆2006年 ‘最澄と天台の国宝’(東博)

☆2007年 ‘京都五山禅の文化’(東博)
☆2008年 ‘本願寺展’  (広島県美)
☆2009年 ‘道教の美術’(三井記念美)
☆2011年 ‘空海と密教美術’ (東博)
☆2011年 ‘法然と親鸞’   (東博)
☆2024年 ‘法然と極楽浄土’ (東博)

もっとも多いのは浄土宗の法然(1133~1212)と親鸞(1173~
1262)。そして密教の空海も京博と東博で大きな特別展が開かれている。
昨年東博では13年ぶりに法然が登場した。開催されたのに出かけなかったも
のがあるかもしれないが、長い空白期間の後の大法然展だったので2度も訪問
した。

肖像をみると法然がふっくらした柔和な顔をしているのに対し、親鸞は気性が
激しそうな感じで厳しい表情のイメージが目に焼きついている。ともに伝記絵
があるので、ときどきながめその教えを噛みしめている。

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2025.04.22

マーラーが使われた名作映画!

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今年の前半はブックオフへ足を運び映画のDVDや音楽のCDを購入すること
がガクンと落ちて、コレクションボックスにおさまったものをまた観たり聴
いたりしている。ただ、これは〇〇をしながらのこと。わが家のルーティン
作業、たとえば本の整理、展覧会の図録の統廃合、美術関連資料のファイル
づくりを飽きずに続けるためのバックグラウンド映像&ミュージックである。

昨日は伊丹十三監督の‘タンポポ’(1985年)を観ながら懸案の作業に手を
動かしていた。映画はほとんど日本映画で喜劇が多い。どっさり揃った東宝
の人気映画‘社長シリーズ’や‘駅前シリーズ’は笑いの連続だから、作業がはか
どる。‘タンポポ’も喜劇仕立ての‘ラーメン・ウエスタン’。山崎努、宮本信子
などお馴染みの演技力のある俳優が続々登場する。

名画は鑑賞するたびに発見があるというが、この名作映画でもしっかりある
ことに気がついた。それはマーラーの交響曲が物語の節目々にとても効果的
に使われていること。それらが全部‘1番巨人’からかはちょっとあやふやだが、
マーラーは学生時代からずっと聴いている大好きな作曲家なのでどの交響曲
でも‘さび’のメロディは脳がすぐ反応するようになっている。だから、どんど
んいい気持になった。マーラーの心の琴線に響くメロデイがこんなにたくさん
使われていたのか!という感じだった。そして、思った。伊丹監督もマーラー
に心底嵌っていたんだと。

マーラーが使われた映画でもっとも有名なのはルキノ・ビスコンティ監督の
‘ベニスに死す’(アメリカ製作 原作トーマス・マン)。この映画で‘交響曲
第5番 第4楽章アダージェット’が流れる場面は本当に痺れる。これだから
マーラーはやめられない。そして、ベルトリッチ監督の‘ラストエンペラー’に
主演したジョン・ローがチャイナマフィア役で出演した‘イヤー・オブ・ザ・
ドラゴン’に使われた‘交響曲第3番’も忘れられない。

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2025.04.21

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 一休さん

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 ‘一休宗純像’(重文 1550年代 東博)

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‘一休と森女図’(16世紀 正木美)

Img_0002_20250421223901   下村観山の‘一休禅師’(1930年 松岡美)

Img_0004_20250421223901   河鍋暁斎の‘地獄太夫と一休’(1871年以降 福富太郎コレクション)

Img_0003_20250421224001   英一蝶の‘一休和尚酔臥図’(18世紀初め 板橋区美)

東博へ度々通っていたころ、平常展に飾られた一休宗純(1394~1481)
の肖像(頂相)に思わず足がとまり、長くみていたことがある。この禅僧が
あのとんち話で有名な一休さん?こういう顔をした老人は身の回りによくい
るから、知恵があり快活なお坊さんという感じが消えるとともに‘この橋、
通るべからず!’の立て看板をみて、‘じゃあ、橋の真ん中を通ればいいでしょ
う’と渡っていった一休さんもどこかへいった。それほどこの肖像はリアルす
ぎるほど普通の人物にみえるのである。

大坂の正木美が所蔵する‘一休と森女図’は愛情の物語を思わせる作品。東博の
ものより頭の髪を整えた一休が円相のなかに描かれ、晩年をともに過ごした
盲目の女性、森女(しんにょ)が下にいる。森女は歌曲をよくした色白の
美人だった。傍らに鼓と杖が描き添えられている。横山大観、菱田春草と
行動をともにした下村観山(1873~1930)の‘一休禅師’も2枚の絵と
似ており、表情の静かな印象は同じ。

一休のもっとも愉快な絵が河鍋暁斎(1831~1889)の‘地獄太夫と
一休’。地獄大夫は堺にいた遊女で一休の導きにより悟りをひらいた。堺に立
ち寄った一休が彼女の美貌に驚き‘聞きしより見て美しき地獄かな’と詠むと、
太夫は‘生き來る人の落ちざらめやも’(生きている私たちも地獄におちるので
しょうか)と返句したという。骸骨の上に乗りどんちゃん騒ぎの一休の姿が
じつにいい。

英一蝶(1652~1724)の‘一休和尚酔臥図’は板橋区美で行われた回顧
展でお目にかかった。みた瞬間、酒屋の前で酔いつぶれている酒好きの一休
さんがガリバーになったのかな思った。手前の小僧にくらべて三倍くらいの
体重がありそう。一休のおおらかさを強調するために一蝶はおもしろい発想
をする。

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2025.04.20

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 高僧

Img_20250420224901   国宝‘鑑真和上坐像’(8世紀 唐招提寺)

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運慶の国宝‘無著立像’(1212年頃 興福寺)

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国宝‘無準師範像’(南宋1238年 東福寺)

Img_0002_20250420225001   運慶の国宝‘重源上人坐像’(13世紀 東大寺)

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‘夢窓疎石像’(14世紀 妙智院)

京都と奈良にある寺院や神社は修学旅行で訪れたあと、社会人になるとガイ
ドブックに載っている有名な観光名所はだいぶまわった。奈良の唐招提
寺にも足を運んだが、6/4,5、6の3日だけ公開される‘鑑真和上坐像’は
タイミングがあわずここではみていない。本物と縁があったのは奈良博
(1995年)と東博(2005年)で行われた特別展。

鑑真(688~763)が日本にやってきたのは753年。このときはもう
失明していた。この坐像はびっくりするほどリアルでそこに本人が坐ってい
るような実在感がある。睫毛1本まで描きこむ緻密な描写をみると、こんな
顔をしていたんだなと思い背筋がしゃんとする。天才仏師、運慶(?~
1223)の‘無著立像’は鑑真同様、エポック的な鑑賞体験となった作品。
無著(むじゃく)と弟の‘世親’(せしん)は北インドに4~5世紀頃に実在し
た僧侶の兄弟。でも、無著はインド人の風貌ではなく今年ジャイアンツに
移籍したプロ野球選手マー君(田中投手)に似た日本人の顔になっいる。
この角ばっだ顔と玉眼による生き生きとした目の表情が印象深い。

2年前、東博で開催された‘東福寺展’に寺のお宝中のお宝が飾られた。それは国宝に指定されている‘無準師範像’。これは宋に留学した円爾(えんに 1202~1280)の師である高名な僧侶、無準師範(1177~1249)の頂相(肖像画)。お目にかかるのは2回目だが、今回は大変偉い僧侶と今対面しているという思いを強くした。

日本人の高僧ですぐ思い浮かぶのが源平の争乱で焼失した東大寺を復興させた重源(1121~1206)の運慶による彫像と伊勢に生まれた禅宗の夢窓疎石(1275~1206)の肖像画。背を丸めて坐す老いた重源の深く刻まれた皺からは困難をきわめた東大寺の復興事業の注いだエネルギーの大きさがうかがわれる。夢窓疎石の顔は頭脳明晰のイメージが強く、天竜寺というとこの高僧がすぐでてくる。

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2025.04.19

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 達磨

Img_20250419231901   雪舟の国宝‘慧可断臂図’(1496年 斉年寺)

Img_0003_20250419231901   明兆の‘達磨図’(重文 15世紀 東福寺)

Img_0001_20250419231901   国宝‘達磨図’(13世紀 向嶽寺)

Img_0004_20250419231901   墨谿の‘達磨図’(重文 真珠庵)

Img_0005_20250419231901   白隠の‘半身達磨’(18世紀 萬壽寺)

西洋画でも日本画でも人物描写でドキッとする作品に出くわすことがある。
たとえば、カラヴァッジョの‘ユディトとホロフェルネス’ではホロフェルネス
の首がかき斬られ血がどどっと流れ落ちている。これは長くみてられない。

これと同じように思わず体がフリーするのが雪舟(1420~1506)の
‘慧可断臂図’。壁にむかっているのが9年も修行中の達磨で、その後ろにいるのが入門を願う神光という僧(慧可)。僧をよくみるとその左腕は切り落とされている。本気で入門したいという気持ちを示すために腕を切り落としたのである。2002年京博で大回顧展をみたとき、あの雪舟がこんなすごい絵を描いていたのか、とびっくりした。

インドから中国に渡来し禅を伝えた中国禅宗の初祖、達磨(5世紀後半から6世紀前半)にはサプライズが続く。それは2年前の‘東福寺展’(東博)出品された‘達磨図’の画面の大きさ。縦は2.6mもある。描いたのは明兆(1352~1431)で正面を向いた骨太の達磨がどーんと座っている。眼が大きく髭が濃くて顔全体がぱーんと張っている感じ。その圧の強い存在感に圧倒される。この特徴は鎌倉時代の13世紀に描かれた達磨でも墨谿(室町15世紀の禅僧)のものでも似た表現になっている。

そして、江戸時代の禅僧白隠(1685~1768)の描いた‘半身達磨’も忘れられない。ここにいる達磨は威圧感がなく、どこかユーモラスで親しみを感じさせ、ずっと向き合っておれる。そして、仮に長い禅問答になってもつきあえそうな気がする。

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2025.04.18

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 那須与一

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小堀鞆音の‘那須宗隆射扇図’(1890年 山種美)

Img_0002_20250418231901   村上豊の‘絵本 義経ものがたり 那須与一’(2006年)

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鈴木春信の‘見立那須与一’(1766~67年 フィラデルフィア美)

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鈴木春信の‘見立官女玉虫’(1766~67年 ボストン美)

‘平家物語’で語られる源平屋島の合戦(1185年)に名高い故事がでてくる。
下野の武者那須与一は弓の名手で源平合戦では義経軍に従った。讃岐屋島の
海上に舟を浮かべた平家の軍勢が小舟の竿に旭日の扇を掲げて漕ぎ出したの
をみて、義経は戯れにこれを射るように那須与一に命じたところ、見事に射
落とし両軍の喝さいを浴びたという。

小堀鞆音(こぼりともと 1864~1931)の‘那須宗隆射扇図’をみたの
は山種美。これがあの弓の名手・那須与一かとしみじみ眺めた。手前の与一
を大きく描き遠くの平家の軍勢を小さく描いて空間の広がりを縦長の画面で
表現している。弓矢の達人のオーラが感じられる与一の後ろ姿がとてもカッ
コいい。

与一の顔がイケメンで描かれているのが村上豊(1936~2022)の‘絵本 義経ものがたり’。‘源平両軍、すべての人々の視線を浴びながら馬に乗った与一は、海中に九尺ほど進んだところで弓を構える。波の揺れる扇!与一は祈る。南無八幡大菩薩! 願わくばあの扇のど真ん中を射させたまえ。そして!与一の放った鏑矢は海上いっぱいにうなりを発し みごと扇を射た。’

鈴木春信(1725~1770)は那須与一の話を下敷きにしてこれを2つの見立絵で表した。上の‘見立那須与一’は若衆が弓矢の先に恋文を結び付けてそれを射て下に描かれた扇をもつ若い娘に渡そうとする場面。与一の左肩の横に茄子(=那須)がみえる。娘は平家方の官女・玉虫に見立てられ、振袖には平家の軍団を想起させる帆船の模様があしらわれている。

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2025.04.17

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 頼朝・義経

Img_0003_20250417232001   国宝‘伝源頼朝像’(13世紀 神護寺)

Img_20250417232001   安田靫彦の‘黄瀬川陣’(重文 1940~41年 東近美)

Img_0001_20250417232101   前田青邨の‘洞窟の頼朝’(重文 1929念 大倉集古館)

Img_0002_20250417232101   歌川国芳の‘大物之浦平家の亡霊’(1849~52年頃)

Img_0004_20250417232101   松岡映丘の‘屋島の義経’(1929年 東近美)

源頼朝(1147~1199)の顔のイメージは京都の神護寺にある肖像画
によって決定的に刷り込まれている。実際の顔がこのようだったかという話
は横に置いて、歴史上の人物としては一万円札に使われた聖徳太子とともに
もっとも知られているのではなかろうか。この頼朝像はこれまで運よく3回
見ることができたが、記憶に強く残っているのは口と顎の髭と黒の装束に使
われた文様。鼻が少しだんご鼻なのは観るのを重ねるうちにわかったこと。

歴史画を得意とする安田靫彦(1884~1978)と前田青邨(1885~1966)は武者姿の頼朝を描き、明治以降に生まれた日本画の傑作として重文に指定されている。源義経(1159~1189)と一緒に描かれた‘黄瀬川陣’は東近美で定期的に展示されるが、いつも鎧兜の精緻な描写と色彩の美しさを息を呑んでみている。頼朝の顔は神護寺の肖像画に似ている感じ。

一方、大倉集古館のお宝のひとつである‘洞窟の頼朝’は石橋山の戦いに敗れて洞窟に隠れた頼朝主従の緊迫した情景が目に焼き付く。まるで映画のワンカットをみるようで、武者たちが身につけている鎧兜から体を動かすときにでるカシャカシャという音が耳に入ってくる感じ。一度じっくり人物の顔をみたとき、皆鼻が大きいことに気づいた。この頼朝がインプットされているので松岡映丘(1881~1938)の‘屋島の義経’が青邨の頼朝像とかぶってしょうがない。

歌川国芳(1797~1861)の戯画チック全開の‘大物之浦平家の亡霊’は鑑賞欲を200%刺激する傑作。平家が壇ノ浦に海のもくずと消えてから3年。あれほど功績を挙げたのに義経は兄頼朝に追われる身になり、摂津国大物浦(だいもつのうら)から西国へ向かって出帆した。ところが暴風雨に遭遇、海底に沈んだ平家の怨霊が現れ山のような大波を起こし、義経主従を襲ってくる。闇に浮かぶ亡霊のシルエットはホラー映画を連想させる。船の後方で弁慶が必死になっ経文を唱えるとようやくしずまった。

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2025.04.16

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 牛若丸

Img_0001_20250416232701    歌川広重の‘義経一代記’(1833~36年頃)

Img_0002_20250416232701    歌川国芳の‘洛陽五条橋之図’(19世紀)

Img_20250416232701    鈴木春信の‘牛若丸と弁慶’(1767年 大英博)

Img_0003_20250416232701    河鍋暁斎の‘牛若丸図’(1888年 熊本県美)

少年時代の源義経、すなわち牛若丸は小さい頃男の子にとっては金太郎同様、強い少年の象徴だった。その強さを見せつけるのが武蔵坊弁慶との戦い。牛若丸は五条大橋で千本の太刀を奪う悲願をたてた弁慶に出会う。美少年をみて弁慶は最後の一本は簡単にゲットできると楽勝モード。ところが結果は惨敗。その願いは達成できなかった。

牛若丸の動きは俊敏で生来の運神経の良さを発揮し、弁慶の長刀を欄干に片足立ちしさらりとかわす。歌川広重(1797~1858)の‘義経一代記之内 九回 五条の橋に牛若丸武蔵坊弁慶を伏す’はこの場面が描かれている。見栄えのする決闘の動きを橋を斜めにすることで最高のクライマックスシーンにみせる構図が見事。

これに対し、物語絵なら俺に任せろと描く絵師のテンションが高原状態なのが歌川国芳(1797~1861)の‘落陽五条橋図’。弁慶の迫力はガチに激しく、猛者たちをうち破り999本の太刀を奪った腕前は伊達ではない。この勝負、どっちが勝つかわからないほど緊迫感につつまれ牛若丸は真剣そのもの。

でも、最後は鈴木春信(1725~1770)の‘牛若丸と弁慶’に描かれるように‘どうだ参ったか、弁慶!’と牛若丸に軍配があがる。これは大英博の所蔵するお宝春信の一枚。2002年、広島で仕事をしていたとき運よく遭遇した大回顧展(山口県萩美・浦上記念館)でお目にかかった。春信は本当に上手く描く。そして、河鍋暁斎(1831~1889)の‘牛若丸図’にも魅了される。すくっと立ち横笛を奏でる凛々しい若武者の姿は映画のワンシーンをみるよう。

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日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 酒呑童子

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  菱川師宣の‘大江山物語’(17世紀 MOA美)

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  歌川国芳の‘大江山酒呑童子’(19世紀)

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  歌川広重の‘源頼光一代記’(19世紀 ボストン美)

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  狩野元信の‘酒呑童子絵巻’(重文 1522年 サントリー美)

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  鈴木其一の‘大江山酒呑童子図’(19世紀 ファインバーグ・コレクション)

山姥に育てられた金太郎は成長すると坂田金時と名乗り、猛勇無双の源頼光
(らいこう)に従って都で多くの人をさらい人々を恐怖におとしいれた鬼、
酒呑童子を退治する四天王の一人となった。一行が向うのは京都北部の大江
山。ここに鬼が住みついている。

5人は鬼を油断させるため山伏に変装し、立派な館をみつける。出てきたの
は身の丈3mはある大男だった。道に迷ったので一夜の宿を貸してほしいと
頼むと中に通された。そこに案内役の女性が現れ‘この館に入ったら生きては
帰れません。あの男はわれわれを食ってしまう鬼でございます’とささやく。
大男こそ、鬼の酒呑童子だった。

そして、酒盛りがはじまる。頼光は何も知らないふりをして童子に酒をすす
めた。菱川師宣(?~1694)の‘大江山物語’では6図にこの場面がでて
くる。歌川国芳(1797~1861)の絵は頼光が差し出した神酒で酔い
つぶれた童子の顔に次第に鬼の正体が表れてくるところ。そして、鬼の首を
見事に刎ねるクライマックスの場面が目を釘づけにするのが狩野元信
(1476~1559)の描いた‘酒呑童子絵巻’。童子は首を切られてもなお
毒気を吐きかけ頼光に噛みつくが、神授の星兜でこれを防ぐと首は力を失う。
歌川広重(1797~1858)も迫力満点の鬼退治を描いている。これは
ボストン美が所蔵しているが、広重にもこんな激しい絵があるのかと息を呑
んでみていた。

江戸琳派の鈴木其一(1796~1858)の‘酒呑童子図’は鬼のイメージが
まるで違う異色のヴァージョン。滝を見ながら都からさらってきた美女たち
を侍らせて酒宴をはる酒呑童子はイケメンに描かれており、装飾性の強い
物語絵をみているような感じ。

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2025.04.14

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 金太郎

Img_0004_20250414225201   歌川国芳の‘坂田怪童丸’(1836年)

Img_0003_20250414225201   鳥居清長の‘熊に乗る金太郎’(1794年頃)

Img_0001_20250414225201   小杉放菴の‘金時遊行’(1937年頃)

Img_20250414225201   長沢芦雪の‘山姥図’(重文 1797年 厳島神社)

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喜多川歌麿の‘栗を持つ山姥と金太郎’(1798~1800年 平木浮世絵財団)

お気に入りの映画を観たり音楽を聴いたりすると心が時間を遡り‘あのとき’の
想い出が浮かんでくる。絵画の鑑賞でもそれが起こる。小さい頃、金太郎は
身近にいた。凧の絵柄や町内相撲大会の幟りに描かれたり、熊に乗った金太郎
の置物などもあった。だから、浮世絵に金太郎が登場するとつい熱心にみて
しまう。

もっとも惹かれているのは歌川国芳(1797~1861)の‘坂田怪童丸’。
怪童丸とは金太郎のことで、江戸時代にはこの名のほうがよく使われていた。
国芳は若い頃から晩年まで数多く描いており、この鯉つかみの図は一番知ら
れた代表作。現代でもとても刺激的に映る傑作である。金太郎の赤と滝の青、
そして金色の鯉をシャープに組み合わせた色彩感覚が見事!

鳥居清長(1752~1815)の‘熊に乗る金太郎’は強い金太郎全開をイメ
ージさせる。熊に跨り、両脇に従えた鬼は金太郎の持物である鉞を掲げもっ
ている。相撲を取らせれば横綱級のパワーで相手をぶっとばしそう。小杉放菴
(1881~1964)も金太郎の名手。孫がモデルをつとめ屈託のない笑顔
で飛び跳ねる金太郎を演じている。

足柄山の山奥で山姥に育てられた金太郎。その山姥と一緒に描かれたのが長沢
芦雪(1754~1799)の‘山姥図’。はじめてみたとき山姥と金太郎のグロ
テスクな表情にギョッとした。芦雪は晩年、こんな描き方に傾倒していた。
これに対し喜多川歌麿(1753~1806)の絵は綺麗な顔をした山姥に
甘える金太郎の姿がじつにいい。普通の幼児になっている。

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2025.04.13

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 唐子

Img_0002_20250413225301   韓晟の‘売貨郎図’(明時代)

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長沢芦雪の‘白象唐子図屏風’(18世紀 京都・鹿苑寺)

Img_20250413225301   長沢芦雪の‘唐子睡眠図’(18世紀 三の丸尚蔵館)

Img_0003_20250413225301   狩野探幽の‘唐子遊図屏風’(17世紀 三の丸尚蔵館)

Img_0001_20250413225401   葛飾北斎の‘唐子遊び’(1787~93年 東博)

菊慈童と同様、中国でも日本でもよく描かれた画題が唐子。2005年、
根津美で‘明代絵画と雪舟’展が開催され、明時代に活躍した画家たちが描いた
可愛い唐子の絵を4点みた。これがはじめてお目にかかった唐子絵で、
どれも肩の力が抜け口元がゆるむ楽しい作品だった。

その一枚が‘売貨郎図’。貨郎は日用雑貨や婦人用の装身具などを積んで荷を
担ぎ、鄙歌を唱えながら売り歩く行商人のこと。この売貨郎を綺麗な衣装を
纏った嬰児たちが目を輝かせてみている。小さい頃、紙芝居のオジサンがや
ってくると楽しかったのと同じ光景である。

日本画にもいい絵がいくつもある。一番のお気に入りが長沢芦雪(1754
~1799)。唐子は何点も描いているが、2004年、京都旅行のとき
金閣寺へ行ったら‘白象唐子図屏風’(六曲一双)が飾ってあった。白象の背中
に乗ったり鼻をさすったりしている唐子たちの元気なこと。これは生涯の想
い出。芦雪に乾杯!三の丸尚蔵館にある‘唐子睡眠図’もじつにいい絵。赤ちゃ
んはだいたいこんな顔をして眠っている。

三の丸にはもうひとついいのがある。それは狩野探幽(1602~1674)の‘唐子遊図屏風’。これは六曲一双の左隻で獅子舞を中心に新春の芸能、右隻には鶏合と花合に興じる子どもたちが生き生きと描かれている。葛飾北斎(1760~1849)の‘唐子遊び’にも目を奪われる。これは北斎が勝川春朗と名乗っていた時代(20歳~35歳)の作品。唐子が花車を引き行列で遊ぶ様子が描かれている。

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2025.04.12

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 菊慈童

Img_0001_20250412231801   海北友松の‘菊慈童図屏風’(16世紀 岡山 由加山蓮台寺)

Img_0003_20250412231901   鈴木春信の‘見立菊慈童’(1765~66年 東博)

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鈴木其一の‘菊慈童図’(1856年)

Img_0002_20250412232001   横山大観の‘菊慈童’(1897年)

Img_20250412232001   安田靫彦の‘菊慈童’(1939年 五島美)

洋画家の梅原龍三郎が描いた北京紫禁城の絵をときどきながめていると中国
への旅心が刺激されるが、2度目の訪問については実行計画がなかなか進ま
ない。以前日中関係が良かったとき古代中国展や北京故宮博物院展などがよ
く開催され、2012年には大傑作‘清明上河図’(北宋時代 12世紀はじめ)が披弄されるという夢のような展示があった。また、そんな状況がやってくることを願っているが、果たして。

歴史好きなので中国の歴史には強い関心をもっており、関連の本をいろいろ読んでいる。でも、歴史書から汲み取る政治体制や社会、風俗のことだけでは情報としては厚みに欠ける。それを補ってくれるのが中国絵画や陶磁器、そして中国の故事や伝説を主題にして制作された日本画や彫刻などの美術作品。多くの画家が描いてきた‘菊慈童’はもし美術鑑賞が趣味でなかったら、無縁のままだったろう。

菊慈童は中国の仙人。美麗な容姿の慈童という童子が周の穆王(ばくおう)の寵愛を受けたが、あるときうっかりと王の枕を跨いでしまった。それを妬みをもつ官人に讒言され16歳のとき遥か遠方の深山に流された。これを哀れんだ王から密かに授かった経文を菊の葉に写経し続けたところ、葉の露が渓流に落ち、その水を飲んだ慈童は不老不死になったという。この物語は重陽の節句の由来となっている。

この菊慈童に最初に心を打たれたのが東博の平常展で遭遇した鈴木春信(1725~1770)の‘見立菊慈童’。この絵で春信は若く愛らしい娘を不老不死の美少年・菊慈童に見立てている。着物には長寿の祈りの象徴である折鶴があしらわれている。海北友松(1533~1615)の絵は2017年にあった回顧展(京博)でお目にかかった。紅色の派手な衣を着けた菊慈童が松の根元に座る姿で表現され、まわりに紅白の菊が描かれている。そして、江戸琳派の鈴木其一(1796~1858)、横山大観(1868~1958)、安田靫彦(1884~1978)にも大変魅せられている。

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2025.04.11

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 筒井筒

Img_20250411232701   横山大観の‘井筒’(1897年 広島県美)

Img_0001_20250411232701   鈴木春信の‘見立筒井筒’(1767年)

Img_0002_20250411232701   鈴木春信の‘見立河内越’(1765年 シカゴ美)

Img_0003_20250411232701  菱川師平の‘伊勢物語 河内越え’(1688~1704年 川崎・砂子の里資料館)

仕事で広島市にいたころ、県立美術館の平常展示で忘れられない日本画にお
目にかかった。それは横山大観(1868~1958)の‘井筒’。拙ブログ
の名前‘いづつや’は苗字からとっており、伊勢物語・23段‘筒井筒’で詠われ
る歌はそらんじているから、エポック的な鑑賞体験となった。

業平が‘筒井づつ井筒にかけしまろがたけ、過ぎにけらしな妹見ざるまに’
(幼いころ、井筒とくらべたわたしの背丈も、もうすっかり井筒を越してし
まったようですよ、貴方とお会いしないでいるうちに)と詠む。これは求婚
の歌。

これに女は‘くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ 君ならずして誰かあぐべき’(あなたと長さをくらべあったわたしの振り分け髪も、肩を過ぎるまでに伸びました。あなたでなくて誰のために髪上げをいたしましょうか)と業平のプロポーズを承諾する返歌で応じる。‘井筒’は井戸を囲む井桁(いげた)のこと。大観が二人を幼なじみの小さな子どもで描くのに対し、鈴木春信(1725~1770)はこの主題を明和の風俗として少し背丈の高い少年・少女に置き換えて‘見立筒井筒’に仕上げている。

春信の‘見立河内越え’は二人が結婚してからの話。業平は根っからのプレイボーイだから、別にいい人ができ、夜になるとせっせと愛人宅に通う。妻が夜道を行く夫の身を案じて詠む歌は、‘風吹けば沖つ白波立田山 夜半にや君がひとり越ゆらん’(風が吹くと沖に白波がたつという名の竜田川を、夜更けにあの方はたったひとりで越えているでしょう)。妻が快く見送るので不審に思い隠れて様子を窺っていた業平はかぎりなく妻がいとおしくなって、以後女の家には行かなくなる。今ならこんな話はまずないが。元禄期に描かれた菱川師平の‘伊勢物語 河内越え’は昨年大倉集古館で行われた‘浮世絵の別嬪さん’で遭遇した。収穫の一枚だった。

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2025.04.10

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 歌仙

Img_20250410222901   ‘佐竹本三十六歌仙絵 柿本人麻呂’(重文 13世紀 出光美)

Img_0001_20250410222901   ‘佐竹本三十六歌仙絵 山辺赤人’(重文 13世紀)

Img_0002_20250410222901   

岩佐又兵衛の‘在原業平図’(17世紀 出光美)

Img_0004_20250410222901   深江芦舟の‘蔦の細道図屏風’(重文 18世紀 東博)

Img_0003_20250410222901   

尾形光琳の‘不二山図’(18世紀 五島美)

和歌への関心が特別強いわけではないが、小さい頃家族で‘百人一首’のかるた
遊びを定期的に行っていたので有名なものは今でもよく覚えている。このお
陰で‘佐竹本三十六歌仙絵’の存在を知り、全部ではないにしろ出光美や東博で
何点か披露されるという情報をつかむと見逃さず足を運んできた。そして、
2019年、京博で開催された決定版‘流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と
王朝の美’に巡り合った。女流歌仙はすでにとりあげたので今回は男性の番。

雪舟が画聖と呼ばれように、和歌の世界では柿本人麻呂(660~724)
と山辺赤人(?~736)が歌聖と呼ばれている。二人は佐竹本では向かい
合うような姿で描かれているが、似絵に多く出てくるのは人麻呂。でも、百人
一首で好きなのは赤人の歌。‘田子の浦に うち出てみれば 白妙の 富士の
高嶺に 雪は降りつつ’。‘田子の浦に’と詠まれると、すぐ手をだしてとった。

9~10世紀にかけて成立した歌物語‘伊勢物語’に主人公として登場する在原
業平(825~880)は歌も上手いが稀代のプレイボーイなのでさまざまな
女性との恋物語が描かれる。岩佐又兵衛(1578~1650)の肖像画は
宗達の絵にでてくる男とはだいぶ描き方がちがい、又兵衛流の特徴である顔の
下がまるく膨れる二重あごを連想する女性画と変わらない。

宗達から尾形光琳(1658~1716)へと継承された伊勢物語絵の図柄をベースにして描かれた深江芦舟(1699~1757)の‘蔦の細道図屏風’は東博の平常展にときどきでてくる。‘東下りのルート’の一場面で何度もみているうちにこの絵にとても魅了された。ここは当時は大変な難所であった駿河の宇津の山。山地をゆく業平の一行は秀逸の構図で配置されている。光琳の‘不二山図’の動きのある描写で霊峰富士に感嘆している感じ。

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2025.04.09

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 能書

Img_0002_20250409233901   ‘弘法大師像’(重文 13世紀 西新井大師總持寺)

Img_0004_20250409233901   ‘弘法大師坐像’(16~17世紀 金剛峯寺)

Img_0003_20250409233901   ‘弘法大師行状絵詞’(重文 東寺)

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‘小野道風像’(13世紀 三の丸尚蔵館)

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鈴木春信の‘見立小野道風’(1765年)

世の中には書道に長けた人がたくさんいるが、わが家のまわりにも亡くなった父をはじめとして、書の先生をしていた叔母がいたり、大学の友人にも達筆なのがいる。5人はすぐでてくる。字の上手い人は年賀状は手書きが多い。時間がかかるだろうが、書くこと自体が楽しいにちがいない。

美術館ではときどき名筆を集めた特別展が行われる。たとえば、王義之の書が東博で披露されたりする。日本の能書で鑑賞する機会が多いのが空海(774~835)。空海展はこれまで4回くらい足を運んだので、定番の‘聾瞽指帰(ろうこしいき)’、‘灌頂暦名’、‘風信帖’(いずれも国宝)などにより見事な筆跡を目に焼き付けてきた。

空海の肖像画は西新井大師總持寺が所蔵する‘弘法大師像’がもっとも明快にその姿を印象付けられる。これをみると空海が頭脳明晰の人であったことが容易にイメージできる。彫刻作品はあまりお目にかからないが、2003年京博で開催された‘空海と高野山’に出品された‘弘法大師坐像’が忘れられない。‘弘法大師行状絵詞’は荒れ狂う大波の中、遣唐使船に乗って唐に渡る場面や曼荼羅、経典、法具の制作を行うところなどが描かれている。

日本書道史のなかで和様書道を盛行へと導いたのが能書として名高い小野道風(おののみちかぜ 894~966)。平安時代中期を代表する三跡もひとりである。はじめのころは道風は‘とうふう’でインプットされていた。三の丸尚蔵館にある肖像画をはじめみたとき、戯画っぽい人物描写なので面食らった。この人物がより身近に感じられたのは鈴木春信(1725~1770)が若い娘に置き換えて描いた‘見立小野道風’。これだと書の道に行き詰まりを覚えていた道風が、雨の日に何度も失敗してもそれに屈せず蛙が柳に飛びつくことに成功するのを見て、再び努力することで大成したという逸話が腹にストンと落ちる。

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2025.04.08

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 遣唐使

Img_0002_20250408233501   葛飾北斎の‘詩哥写真鏡 安倍の仲麿’(1833~34年頃 ホノルル美)

Img_20250408233501   鈴木春信の‘百人一首 安倍仲麿’(1768年頃 ボストン美)

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Img_0001_20250408233501   ‘吉備大臣入唐絵巻’(12世紀後半 ボストン美)

日本史が専門の歴史学者の知識には到底叶わないが、歴史全体の流れや各時代の特徴、エポック的事件、政治・文化の発展に大きな役割を果たした人物についてはできるだけ多く知りたいと思っている。限られた時間をこの目標のためにどう使うかはいつも考えているが、ため込んだ歴史本はやはり何かのきっかけがないと真にこちらに向かってきてくれない。そのきっかけとなるのが、歴史的な事件や故事、物語がアート化された作品の鑑賞とかTV番組・映画との出会い。書籍の文字情報より美術品や映像の視覚情報のほうが情報量が多く、立体的にイメージしやすいので、理解がぐんと進む。

高校生の頃歴史の授業でインプットされた遣唐使の話が社会人になり、ふたたび好奇心に火がついたのは趣味である絵画の鑑賞に多くの時間を使っているお陰。16歳のとき遣唐使の一員として唐に留学した阿倍仲麻呂(701~760)を題材にして二人の浮世絵が描いている。

葛飾北斎(1760~1849)の‘詩哥写真鏡 安倍の仲麿’は中国に場面が設定され、日本に帰る船が難破してまた中国の地へ戻ることを余儀なくされた仲麻呂が一座の人々から視線をそらし満月を見上げる姿が描かれている。このどこか淋しげな様子をみると、百人一首に入っている望郷の歌‘天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも’がじーんとくる。鈴木春信(1725~1770)の‘百人一首 安倍仲麿’では仲麻呂は当世の美人遊女に置き換えられ、三笠の山の月を三囲稲荷の月としている。

阿倍仲麻呂はボストン美が所蔵する自慢のお宝‘吉備大臣入唐絵巻’にも霊(幽鬼)となって登場する。日本にあれば国宝間違いなしのこの絵巻は運よく2回お目にかかることができた。遣唐使として唐へ渡った奈良時代の学者、吉備真備(695~775)が、日本に帰れなくて唐で亡くなった阿倍仲麻呂の霊の助けを借り、唐人から出される難問を秘術で立ち向かうという話が漫画チックにおもしろく表現されている。上は宮殿で検討中の試験問題を盗み聞きする吉備大臣。後ろにいるのが助っ人の阿倍仲麻呂(鬼の姿を衣冠束帯の姿に変えている)。下は囲碁の名人と対局する場面。初心者の真備は相手の石をひとつ飲み込むというずるい作戦で勝利する。名人はそれに気づき下剤を飲まされるが、石は腹に止めたままにしてのりきった。

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2025.04.07

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 聖徳太子

Img_20250407232901    ‘聖徳太子画像’(8世紀前半 宮内庁)

Img_0001_20250407232901  国宝‘聖徳太子像’(11世紀 一乗寺)

Img_0002_20250407232901   安田靫彦の‘聖徳太子像’(1920年頃 法隆寺)

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安田靫彦の‘太子孝養像’(1921年頃 法隆寺)

Img_0004_20250407232901   堂本印象の‘太子降誕’(1947年 京都府堂本印象美)

聖徳太子(574~622)といわれてすぐむすびつくのは法隆寺、一万円
札、そして日本人が好きなフレーズ‘和を以て貴しとなす’。会社の同僚や友人
から飲み会に誘われたとき、‘今日は聖徳太子が少ないから長くは付き合えな
いよ’とかいってニコニコ顔を街に繰り出した。

法隆寺から明治11年(1878)に皇室に献上された太子ゆかりの名品‘聖徳太子画像’は日本最古の肖像画で、奈良時代8世紀前半に制作された。一万円札によってその偉い姿が目に焼きついているが、じっさいにお目にかかったのはたしか1回だけのような気がする。10年に一度開催される‘皇室名品展’で対面した。

一乗寺にある国宝‘聖徳太子像’は2007年、‘美麗 院政期の絵画’(奈良博)で運よく遭遇した。髪の形をみると過去に遡る時間がずいぶん長くなるが、古の日本の高貴な人物なので強い存在感がある。

明治以降に活躍した日本画家が描いた聖徳太子ですぐ出てくるのは安田靫彦(1884~1978)。2点とも線描の際立つすっきりした様式で重い気分にならず、すっと太子の向き合えるところがいい。生まれたばかりの太子を描いた堂本印象(1891~1975)の作品に愛着が湧く。白描と抑えた色彩によって表現された偉い人の誕生は聖人の空気が漂っている。

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2025.04.06

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 日本武尊

Img_0001_20250406231401   岸田劉生の‘日本武尊’(1906年 東博)

Img_0003_20250406231401   安田靫彦の‘草薙の剣’(1973年 川崎市民ミュージアム)

Img_20250406231501   川端龍子の‘火生’(1921年 大田区龍子記念館)

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安田靫彦の‘居醒泉’(1928年)

古代神話のなかではもっとも知名度が高く人気のある日本武尊(やまとたけ
るのみこと)は、相撲好きの人には幕内の上位にあがってきた尊富士(たけ
るふじ 伊勢ケ浜部屋)が土俵に登場すると、思い浮かぶかもしれない。
つくづくいい四股名を親方(元横綱旭富士)はつけたなと思う。この力士が
番付をあげ昨年優勝したりして注目され出したのとわが家の宮崎旅行が重な
ったので、小さい頃から知っているヤマトタケルがぐっと近づいてきた。

洋画家、岸田劉生(1882~1911)はとてもカッコいいヤマトタケル
を描いている。前もふれたがモデルは劉生自身というが、このイケメンぶ
りはどうみても200%盛っている。所蔵するのは東博だが、何度も通ってい
るのに平常展でみたという実感がない。どうして展示しないのだろう?

ヤマトタケルを一番多く描いているのが歴史画で名が知れている安田靫彦
(1884~1978)。4点あり、これまで縁があったのは‘草薙の剣’、
‘吾妻はや’、‘居醒泉’。力強い英雄というイメージがピッタリなのが‘草薙の剣’。賊に火攻めにされたが、周囲の草を草薙の剣でなぎ払い火をつけ、この火の勢いで寄せてくる火を追いやる作戦にでる。これで賊を皆焼き殺した。川端龍子(1885~1966)の‘火生’も同じ場面だが、ヤマトタケルが不動明王をもとにして描かれているので、火攻めがどこかへいき、あの激しい‘赤不動’の仏画をみているよう。

‘居醒泉’はヤマトタケルが伊吹山の神を退治しようと意気込んで登ったが、山の神に激しい氷雨を浴びせられ生死のの堺をさまよい、泉の水で蘇生した場面が描かれている。このあたりからヤマトタケルの健康が急速に悪化し、大和への途上で亡くなる。鈴鹿で詠んだ歌は名歌のひとつ、‘倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し 美し’

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2025.04.05

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 日本神話

Img_20250405231101    河鍋暁斎の‘日本神話 島々の誕生’(1878年)

Img_0001_20250405231101   冨田渓仙の‘伊弉諾尊・伊弉冉尊’(20世紀 福岡市美)

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Img_0003_20250405231101   今村紫紅の‘海の幸山の幸’(1908年 アーティゾン美)

Img_0005_20250405231101   岸田劉生の‘わだつみのいろこの宮’(重文 1907年 アーティゾン美)

Img_0004_20250405231101   河鍋暁斎の‘素戔嗚尊の九頭龍退治’(1887年頃 大英博)

昨年の3月、神々のふるさと、宮崎を訪れたのがきっかけとなり、古事記を
じっくり読んだりこれを題材にした日本画とあらためて向き合うことが多く
なり、旅の効用を噛みしめている。青島や高千穂に足を踏み入れる前は、
日本神話の絵というと岸田劉生(1882~1911)の‘わだつみのいろこ
の宮’と‘大穴牟知命’しかすぐに思い浮かばなかったが、今では図録を丁寧に
みていると、〇〇も神話を歴史画として描いていたのか!と惹き込まれることがしばしばある。

河鍋暁斎(1831~1889)の‘日本神話 島々の誕生’は日本に滞在していた英国人の依頼により描かれた‘日本神話シリーズ’(10図あったが、現在発見されているのは5図)の一枚で、国産みにかかわった二柱の神、伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)が天浮橋に立ち、天の沼矛を下ろして海水をかき混ぜおのごろ島が出現させる場面が描かれている。冨田渓仙(1879~1936)も同じ場面を漫画チックな画風で表現している。

青島神社で購入したわかり易い小冊子‘日向神話’のおかげで海幸彦・山幸彦の兄弟の物語がよく頭に入った。そして、聖書のカインとアベルの話が重なってきた。今村紫紅(1880~1916)は正方形の画面に弟の山幸彦(下で弓矢を構えている)だけを描いている。では、上の釣竿と魚をもっているのは誰?この女性は山幸彦が娶ることになる豊玉姫(海の世界にいる)。

その豊玉姫は岸田劉生の有名な絵では木の枝に腰掛ける山幸彦の下で横をむく姿で描かれている。いつみても山幸彦が女性に見えてしょうがない。この出会いにより二人は結婚して、その後山幸彦は失くした兄の釣り針を海の神様の支援で探し出すことができた。そして地上の世界へ帰っていく。暁斎は‘日本神話シリーズ’とは別に素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)をやっつけるところを‘素戔嗚尊の九頭龍退治’で絵画化している。太刀を振りかざしスーパーパワーをもつ素戔嗚尊のダイナミックな動きに吸い込まれる。

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2025.04.04

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 阿国 砧

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‘阿国歌舞伎図’(重文 17世紀 京博)

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森田曠平の‘出雲阿国’(1974年 山種美)

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菱田春草の‘砧’(1904年頃)

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上村松園の‘砧’(1938年 山種美)

山種美が前の場所にあったころ日本画をよく楽しんだが、絵の前でハットさせられるほど強烈なイメージで迫ってきたのが森田曠平(1916~1994)の描いた‘出雲阿国’。出雲大社の巫女の出身といわれた阿国については男装して踊ったエキセントリックな女性というのはインプットされていた。その阿国が絵画化され黄金の地に切れ長の目力のスゴイ踊り手として登場した。じっとみているとよさこい祭りのあの熱気に圧倒されるのと似た雰囲気が漂っている。

この絵からだいぶ経って、京博が所蔵する‘阿国歌舞伎図’が出品された特別展‘近世初期風俗画 躍動と快楽’(2008年 たばこと塩の博物館)に運よく巡りあった。舞台で阿国(男装で刀を背負う人物)が代表的な演目‘茶屋遊び’ を演じている。これは早い時期の阿国歌舞伎。前にかがんでいるのは茶屋のおかみさん役の女装した男(狂言師)。

砧(きぬた)という題材は浮世絵にもでてくるが、すぐ思い浮かぶのは菱田春草(1874~1911)と美人画の上村松園(1875~1940)。ほぼ同時代を生きた二人のビッグネーム日本画家が砧を描いているというのもおもしろい。砧は衣板(きぬいた)のことでこの板に布を置き、布を柔らかくし、つやをだすために槌で打つ。

春草の絵では薄の生い茂る秋の月夜に女は一人砧を打っている。遠くに行っている夫を忍びながら、心を鎮めるように淡々と作業をしている風。これに対し、松園の描く女性は立姿。砧を打つのをやめ、静かな立ち居振る舞は寂しさが募るばかりという感じ。早く夫に会いたい気持ちが強く、じっと座ってられないのかもしれない。

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2025.04.03

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 静御前

Img_20250403230201   葛飾北斎の‘白拍子’(19世紀 北斎館)

Img_0001_20250403230301   上村松園の‘靜’(1944年 東近美)

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Img_0002_20250403230301   村上豊の‘繪本 義経ものがたり’(2006年 講談社)

大河ドラマがスタートしたころはある時期まで熱心に観ていた。義経の物語
を1年やっていた年がいつでどういうタイトルだったか忘れたが、誰が出演
したかはよく覚えている。義経は尾上菊五郎で静御前は藤純子。二人はこの
共演が縁で結婚した。皆がうらやむ美男美女だから大いに話題になった
(知っている人は知っている)。

義経が愛した静御前は平安末期から鎌倉時代にかけていた歌と舞い芸能人、
白拍子の第一人者だった。葛飾北斎(1760~1849)が描いた静御前
の見立て絵‘白拍子’は浮世絵版画ではなく肉筆画。北斎が為一年代(61歳か
ら70代前半)の作品で長野県の小布施にある北斎館が所蔵している。

美人画の名手、上村松園(1878~1972)の‘靜’は手に扇を持ち、これ
から舞うところがとらえられている。ここは鶴岡八幡宮で描かれていないが
前には舞を命じた義経と対立関係にあった兄頼朝と妻の政子がいる。
静御前は‘しづやしづ賤のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな’と歌い、
恋慕の舞を舞う。この歌に頼朝は怒ったが、政子にたしなめられる。

目白の野間記念館で縁があった村上豊(1936~2022)の‘繪本 義経ものがたり’をときどき楽しんでいる。この絵本に静は3回登場するが、最初が義経が頼朝に追われて吉野の山へ逃げ延びたとき、連れてきた静との別れの場面(上の絵)。別れて都へ帰ることを聞き入れない静に義経は自分が愛用していた手鏡を渡した。でも、静はそれを見てもうれしくありません、この鏡は恋しい人を映してくれませんから、という嘆きの歌を詠む。最後がつい見惚れてしまう頼朝の前で舞う姿(下の絵)。

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日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート!松風・村雨

Img_20250402232301   英一蝶の‘松風村雨図’(17世紀末)

Img_0001_20250402232301   鳥居清長の‘風俗東之錦 汐汲み’(1783~84年頃 メトロポリタン美)

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上村松園の‘汐くみ’(1935年頃 大阪中之島美)

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上村松園の‘古代汐くみ’(1944年)

英一蝶(1652~1724)の描く風俗画や鈴木春信(1725~1770)
の錦絵に魅了される理由のひとつは人物の動的描写がとても上手いこと。
昨年、一蝶の決定版の回顧展をサントリー美に遭遇し、あらためてその思い
を強くした。たとえば、‘松風村雨図’では須磨に流された在原行平に愛され
た海女の姉妹、松風(まつかぜ)、村雨(むらさめ)は左右対称にまるで踊
っているように描かれている。

在原行平(ありわらのゆきひら)は818~893年を生きた政治家・歌人
で、歌物語‘伊勢物語’の主人公とされ絶世のプレーボーイとして名を残す在原
業平(なりひら)の異母兄にあたる。行平はある罪により謹慎処分となり、
須磨(兵庫県神戸市)へ島流しとなった。平安時代中期に紫式部によって描
かれた‘源氏物語’の‘須磨’の巻は在原行平のエピソードから着想を得ている。

須磨の地で愛した女性が松風と村雨。行平が赦免されて帰京するとき形見に残したのが、一蝶の絵の中央に描かれた松の枝にかかる烏帽子(えぼし)と狩衣(かりぎぬ)。この題材を鳥居清長(1752~1815)も取り上げて、江戸の生活風俗を描くシリーズの一枚‘風俗東之錦 汐汲み’とした。どこか芝居の一場面のような構成で上部に描かれた松が悲恋物語を想像させる。

上村松園(1875~1949)は謡曲‘松風’をもととした舞踊‘汐くみ’の場面を繰り返し描いている。この2点は2010年の大回顧展に出品されたが、もう一点箱根の岡田美で‘古代汐くみ’と同じタイプのものにお目にかかり、息を呑んでみたことがある。いずれも色彩の美しさ、品格のある人物表現に惹き込まれるすばらしい美人画である。

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2025.04.01

日本・中国の故事、歴史から生まれた傑作アート! 紫式部

Img_0001_20250401231101   鈴木春信の‘五常 信’(1767年 シカゴ美)

Img_20250401231101   勝川春章の‘月図’(重文 1787~88年 MOA美)

Img_0002_20250401231101   菊池契月の‘紫式部’(20世紀 ギャラリー鉄斉堂)

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北野恒富の‘紫式部’(1926~1930年頃)

今年の大河ドラマは昨年の‘光る君へ’同様、定番の合戦シーンがない江戸出版
界の天才プロデュ―サー、蔦屋重三郎の物語にスポットが当てられている。
毎週欠かさず‘べらぼう’を楽しんでいるが、蔦重は浮世絵の喜多川歌麿や写楽
と深く結びついているから、これから出てくる話のなかで美人大首絵や役者
絵がどんないきさつで生まれたのかは俳優のリアルな演技によってビシビシ
胸に突き刺さっていくのだろうと今から期待している。

紫式部の‘源氏物語’ついては小説を読んでおり、また絵画化された絵巻を徳川
美や五島美で熱心に鑑賞してきたから、昨年の大河ドラマをずっとみていたら、
いろんな情報が追加され絵巻をより深く楽しめるようになっていたかもしれ
ない。番組によくチャンネルを合わせていた隣の方の話では視聴率も高かった
らしい。一緒にみておけばよかったなと思ったりもしている。

鈴木春信(1725~1770)の‘五常 信’では石山寺で源氏物語の想を練ったという紫式部の姿が描かれている。五常とは儒教が説く、人の常に守るべき五つの徳目、‘仁、義、礼、智、信’のこと。信は嘘でない真実、誠実という意味だが、この画題に紫式部の逸話が選ばれているのは‘源氏物語’が宮廷貴族の栄華と矛盾を‘もののあわれ’というテーマのもとに描きだしている点と関係しているかもしれない。

肉筆美人画で絶大な人気のあった勝川春章(1743~1792)の‘雪月花’の‘月図’は紫式部が描かれている。もう大変な美人で、MOAでお目にかかって以来魅了され続けている。昨年、大倉集古館で開催された‘浮世絵の別嬪さん’で再会した。まさに肉筆美人画で‘最高の瞬間!’だった。菊池契月(1879~1955)と北野恒富(1880~1947)の‘紫式部’は上村松園の‘伊勢大輔’を連想させ、ついうっとりながめてしまう。

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