美術館に乾杯! 京都市京セラ美術館 その三
竹内栖鳳(1864~1942)の作品は東京では山種美にある‘班猫’
(重文 1924年)がすぐ頭に浮かび、京都にあるもので印象的なのはこ
こが所蔵する‘絵になる最初’。この恥じらいのポーズがなんともいい人物画
は2016年重文に指定された。栖鳳は生き物の絵をたくさん描いており、
女性画は少ない。そして、おもしろいのが飛天を除いていずれも顔をしっか
りみせていないこと。舞妓は横向きの顔を扇子で隠し、農家の娘も正面を
向いていない。この絵でも正面をむいているが顔の大半は手で隠している。
栖鳳がどうしてこのように女性を表現したのか、その心のうちはまだとけ
てない。
意外なことだが、前田青邨(1885~1977)の回顧展は東京で体験し
ていない。2006年にあったときは島根県美、故郷の岐阜県美、浜松美。
そのため、わざわざ岐阜と浜松まで出かけた。画集に載っている名画の数々
を見逃すのはどうも気がおさまらない。強い鑑賞意欲に突き動かされるの
は幸せなときかもしれない。‘観画’に描かれた満州貴婦人の群像図を長くみ
ていた。
天性のカラリストであり抽象画のセンスも持ち合わせている福田平八郎
(1892~1974)は大分県の出身だが、小野竹喬(岡山県)らと同じ
くずっと京都で創作活動を続けた。‘青柿’はぱっとみると日曜画家でも描け
そうな花鳥画、でも日曜画家ではとても思いつかないところがある。それ
は柿の幹を見る者に意識させないように描いていること。青の葉っぱが斜め
に連続的の重ねられているのでその青の色が強く印象づけられる。色彩の
イメージが抽象画と結びつくのが平八郎の花の絵のマジック。
上村松篁(1902~2001)の‘池’は大変魅了される花鳥画。上に描か
れた群生する河骨の葉が水面に映る様がとても神秘的でそれを囲む広い空間
を思い浮かべるとそこだけが特別密度が濃い感じがする。
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