鉄腕稲尾和久 死去
プロ野球界の大投手、鉄腕稲尾が昨日未明、悪性腫瘍のため亡くなった。70歳。
2週間前は元気だったというから、ご家族、知人、友人は大変なショックだろう。ご冥福を心からお祈りしたい。合掌!
稲尾が黄金時代の西鉄ライオンズに入団し、大活躍をしたのはちょうど小学生の頃で、鉄腕稲尾は一番好きな投手だった。一年目からいきなり21勝し、翌年から3年連続で30勝以上の勝ち星をあげ、1961年には今では考えられない年間42勝のプロ野球記録をつくった。稲尾が投げてチームが勝つ度に新聞のスポーツ欄には“神様、仏様、稲尾様”の活字がおどった。
コントロールが抜群で、得意球のシュート、スライダーを武器にとにかく相手チームに点を与えない。当時の西鉄ライオンズの三原監督は稲尾を信頼しきって、何度も登板させた。これだけ使われれば並みの投手ならすぐにパンクするが、稲尾はその超人的は体力にものをいわせ、勝ちまくった。
こんな獅子奮迅の活躍だったから、“鉄腕投手 稲尾物語”という映画までできた。漁師だった父親の手伝いで稲尾少年が小船で櫓を漕ぐシーンを稲尾本人が演じていた。小さい頃のこの櫓漕ぎが足の裏を全て地面につけず、爪先で立つように投げるフォームに役立ったというセリフは今でもよく覚えている。
楽天の野村監督がライバルだった稲尾について語っている話が面白い。当時南海ホークスのスター選手だった野村は稲尾の投げるシュート、スライダーが打てなかったので、色々研究したらしい。で、球種によって握り方に違いがあることに気づき、それから打ち返せるようになったという。ところが、オールスターのパリーグのベンチで同僚のエース、下手投げの杉浦忠が“野村は研究熱心な男だよ!”と稲尾に気軽にしゃべったらしい。
飲み込みの早い稲尾はそれを聞いて、自分のフォームを鏡でチェックし、スライダー、シュートをストレートと同じ握り方に変えてきたので、今度は野村のほうが面食らったという。あの頃のプロ野球の一流選手たちはお互いに切磋琢磨して、投打の技術を磨き、真剣勝負をしていたのである。
悲しいことに鉄腕稲尾は本当に神様、仏様になってしまった。大勢の野球ファンを熱狂させたあのカッコいいピッチングは一生忘れないだろう。
| 固定リンク
コメント
こんばんは
うちの親は稲尾さんのファンで、「サイちゃん可哀想に」と悼んでおります。
わたしは虎党ですが、昔の野球選手の「いい話」や活躍をいっぱい聞かされて育ちました。
もう二度とこういう大投手は現れないでしょうね。
ご冥福をお祈りします。
投稿: 遊行七恵 | 2007.11.16 23:57
to 遊行七恵さん
鉄腕稲尾の突然の訃報にびっくりしました。
亡くなったあとその活躍が鮮明に蘇ってくる
というのは稲尾がいかにスーパーヒーロー
だったかということですね。
投手では、金田、稲尾、杉浦、村山がスーパ
ーヒーローでしょうか。
投稿: いづつや | 2007.11.17 11:41