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2007.09.01

旅展の熊野那智参詣曼荼羅

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旅展の後期(8/23~9/30)をみるため、また三井記念美術館を訪れた(前期は拙ブログ7/19)。展示作品55点のうち、後期だけの8点に800円を払うのは割が合わないのだが、下の“熊野那智参詣曼荼羅”と“伊勢参詣曼荼羅”がどうしてもみたいからいたしかたない。

で、この二つと東海道の宿場風景をコミカルなタッチで描いた広重の“東海道五十三次細見図会・神奈川&程ヶ谷”を30分くらい楽しんでひきあげた。

熊野三山(本宮大社、那智大社、速玉大社)は一度行ったことがあるから、“熊野那智参詣曼荼羅”に対する親しみがグッとます。だが、那智の滝をみたのは随分前なので、滝や大社、お寺がこの絵のような配置になっていたかどうかはあやふや。

興味深い描き方があった。右上の滝に赤い炎が三つ描かれている。これはなぜ?山伏に先導されて進んでいく参詣者の白装束がよく目立つため、参詣の順路がイメージしやすい。注目して見たのは鳥居の前に描かれている補陀落渡海(ふだらくとかい)の場面。この頃、補陀落信仰があった。これは海のかなたにある常世の国にいくと、不老不死の理想郷があるという信仰。常世の国に旅立つことを“補陀落渡海”といった。死を覚悟の上での旅である。

舟の四方に鳥居をめぐらせているのが渡海船で、渡海上人が乗り込むと釘を打って外に出られないようにした。積み込まれるのは30日分の食糧と油だけ。実際、これを実行した者が867年から1722年の間に25人いる。平清盛の嫡孫の維盛(これもり、
1184年)、補陀落山寺の歴代の上人など。同行者を含めると100人以上が海に消えたという。

この熊野那智参詣曼荼羅は今で言うと“観光ポスター”だった。これを使って全国で熊野参詣をセールスしたのが“熊野比丘尼”。平安時代の末期以降、熊野詣の主役になった武士や富農に彼女たちはこの曼荼羅を見せながら、“ほら、見てごらんなさい、上皇、貴族、武士、庶民まで沢山の人が来ているでしょう。参れば、あなたも極楽浄土に行けますよ!”と勧誘した。

熊野詣をはじめたのは皇族や上流階級。宇多法皇が907年に皇族として最初に参詣した。上皇、法皇、女院の参詣記録によると、もっとも多く詣でたのは後白河法皇で33回、2位が後鳥羽上皇の29回、3位は鳥羽上皇23回。

今回、後鳥羽上皇の4回目の熊野詣(1201年)に随行した藤原定家が記した上の“熊野御幸記”(国宝)が全期間、展示されている。現代語訳を読むと、一行の総行程600キロ(往復)は相当きつかったことが窺がわれるが、本宮に到着する直前に定家は“感涙禁じ得ず”と書いているから、熊野三山への参詣が現代に生きるわれわれには測ることができないほど大きな喜びであったのだろう。

この展覧会で参詣曼荼羅をいくつもみれたのは大きな収穫だった。

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コメント

こんばんは
かなり以前から補陀落渡海に関心がありまして(主に松田修の著書などから)色々調べたりしておりました。
数年前世界遺産認定記念に『祈りの道 吉野・熊野 信仰の道』展が開催され(大阪市立美術館・世田谷美術館)熊野・吉野の様々な文物を見ました。そのときに実に多くの熊野曼荼羅がありました。
あの船の絵を描いたものを実際に見たとき、胸を衝かれたようでした。
今でもはっきりと意識に刻まれています。

滝の炎は不動明王を表しています。知人の山伏さんに聞いたところ、不動明王と蔵王権現は修験者にとって、最もちかしくも尊い存在だと言うことでした。

投稿: 遊行七恵 | 2007.09.02 00:10

いづつやさん教えてください。
若冲の白黒反転させた「乗興集」が展示されていましたが、図録では「拓本画」となっていますが、あるところで「拓版画」が正しいのではという議論がありましてどちらが正しいのでしょう?

投稿: oki | 2007.09.02 00:58

to 遊行七恵さん
前から熊野那智参詣曼荼羅に大変興味がありました。
やっと目の前に現れてくれたという感じです。滝に
描かれた炎は不動明王ですか!納得です。手元の本
にでている別の曼荼羅にはこれがなかったものです
から、不思議に思ってました。有難うございます。

熊野には魂を揺るがす何かがありますね。交通の便
は悪いですが、また訪れたいです。

投稿: いづつや | 2007.09.02 11:05

to okiさん
若冲の“乗興舟”は千葉市美にもでてましたね。

これは浮世絵版画のように版木に彫られた形の
凸部分に墨をつけて摺るのとは違うタイプの版画
です。

彫った板の上に濡れた紙を置き、凹面にその紙を
へこました上で、表のほうから墨を塗ってゆくと、
凹部は白く残った画面ができあがります。タンポ
ンは使わないですが、拓本をつくるのと同じ要領
です。

これだと彫った部分(乗興舟では山や家の輪郭線
とか、松の木、舟とか)が白く残されるため、
普通の版画とは白黒が逆転します。中国が発祥で、
若冲が生きたころは石摺と呼ばれてました。

で、拓本画は拓本のような画という意味で使われて
ます。拓版画は技法そのものズバリの言い方です。

投稿: いづつや | 2007.09.02 11:54

いづつや様の以前のブログを拝見して、富士曼荼羅図が出展されてる事を知り、あの時さっそくいってまいりました。出会えてとてもよかったと、おもいます。
後期もありましたのね。
‘蟻の熊野詣’といわれる程、流行ったそうですが、‘なぜ?’が、私の素朴な疑問です。
いつだったか、おびただしい数の熊野曼荼羅の展覧会を観た事があります。
ホントウニ徐福伝説などなどもありますし、魂を揺るがす何かが、熊野にはありますね。(まだいった事は、ないです。)

投稿: 花 | 2007.09.02 15:21

to 花さん
熊野は04年、世界遺産に登録された直後に本宮大社
と速玉大社を訪問しました。“蟻の熊野詣”といわ
れるほど大勢の人が参詣したのでしょうが、険しい
地形ですからたどり着くまでは大変だったでしょうね。

11世紀は末法思想が広がったため、阿弥陀如来を
本地仏とする熊野本宮大社が聖地になりました。生身の
人間はそうタフではありませんから、阿弥陀如来を拝む
ことで不安な気持ちを落ち着かせたのでしょうね。

投稿: いづつや | 2007.09.02 17:43

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