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2007.03.31

アンダルシアの中心都市 セビリア

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スペイン観光の最後は“情熱の国”をイメージさせるアンダルシアの中心地、セビリア。人口70万人(第4位)の大都市である。スペインに関心を抱き始めたころから、セビリアはいつか訪れたいと思っていたが、やっと実現した。

セビリアを思い出させるものはいくつかある。まず、あの“♪♪フィーガロ、フィーガロ、、、”をつい口ずさみたくなるロッシーニ作曲の歌劇“セビリアの理髪師”、そして“カルメン”(ビゼー)の舞台でも有名。絵画では、ベラスケス、スルバラン、ムリーリョらがこの地に生まれている。

市内観光は“スペイン広場”からはじまる。両端に塔が立つ半円形の建物があり、池にかかる橋は手すりや支持に陶器とタイルが用いられ、なかなか豪華。この建物は有名な映画のロケに使われている。それは不朽の名作、“アラビアのロレンス”(1962年、デヴィッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演)で、ロレンス中尉の所属する英国陸軍カイロ司令部の建物として登場する。家にあるビデオを再生すると出てました、出てました!旅行をするといろんな情報に接することができる。

次に向かった上の“カテドラル”は予定では外から眺めるだけだったが、中で行われているミサを妨げないという注文つきで入場がOKになった。で、短い時間ではあったが金色装飾が見事な“中央礼拝堂の祭壇衝立”や4人の人物が支える“コロンブスの墓”をみてまわった。1506年、バリャドリーで54歳の生涯を閉じたコロンブスの墓は数年後にセビリアに移されたが、その後、ドミニカのサントドミンゴ、キューバの地に長くあり、
1874年にセビリアへ戻ってきた。そして1902年、この墓が完成する。

セビリアで見たかったのが真ん中の“ヒラルダの塔”。高さは98mある。イスラム教徒が支配していた時代はミナレット(尖塔)だったが、16世紀にカテドラルの鐘楼塔に改築された。ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのセント・ポール寺院に次ぐ規模を誇るカテドラルにふさわしい立派な塔である。1248年、セビリアを征服したフェルナンドは塔の上まである階段を馬で駆け上がったそうだ。“アルカサール”(王宮)の正面入り口、赤い門で記念写真を撮ったあと、昔のイスラム文化の面影が色濃く残るユダヤ人居住区、“サンタ・クルス地区”を散策した。

セビリアは大きな街なので、クルマも多く、街中は活気がある。前日のフラメンコのディナーショーでは劇場に着くまでちょっとしたハプニングに遭遇した。ポルトガル人運転手が市内の道に慣れてなく、えらく時間を要したのである。そのお陰で街に立っている建物の特徴がすこしつかめた。円形とか球体をイメージさせる建物があまりなく、角々した四角形のフォルムのものが多い。スペインのイスラム教建築はメスキータやアルハンブラ宮殿にみられるように、丸屋根や玉葱型の屋根をもつ中近東のイスラム教建築とは違い、明確な稜線をもつ立方体と塔の組み合わせが中心となっており、この建築思想が今も引き継がれている。

はじめてフラメンコを観たのはマドリードのあまり大きくないレストラン。サングリアを飲みながら、踊り手のすぐ近くでみた記憶がある。今回は食事をしながらの観賞。フラメンコに慣れてないので、踊りの専門的なことはわからないが、何組かの踊りがすすむにつれ、踊りの構成が段々つかめてくる。と同時に出演者のなかで誰が一番上手かがわかるようになる。最初はソロか男女のペアでの踊りが続き、最後に踊り手全員が舞台に上がり、その輪の中で順番に踊っていく(下の画像)。素人目ではあるが、女性より男性の踊りのほうが体にキレがあり、洗練されていた。

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2007.03.30

白い村 ミハス

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太陽の海岸、コスタ・デ・ソルというとすぐピカソが生まれたマラガを頭に浮かべるが、われわれのツアーはここを通り越し、海抜420mのところにある村、ミハスをめざす。

ジブラルタル海峡のタリフから東のアルメリアまでの約300kmの地中海沿岸地域がコスタ・デ・ソル。欧米から大勢のバカンス客がやってくるこのリゾート地は1960年代から開発・整備されたそうだ。冬でも温暖で、真夏の気温は40℃を超えるらしい。ガイドブックによると、ミハスからはジブラルタル方面にあるマルベーリャは高級リゾート地で、世界中の大富豪が所有する豪華クルーザーが沢山ヨットハーバーに停泊しているという。

ミハスはマラガの近くだから、ビーチが見え、フランスのニースのように地中海が満喫できるものとアバウトに考えていたら、その通りにはならなかった。高速道路は海岸沿いの一般道とは違いかなり高いところにあり、俯瞰の視点から地中海を眺めることとなった。

ミハスが近くなると山の斜面に貼りつくように白い家が並んでいた。これはレコンキスタ(国土回復運動)が終わった後、キリスト教徒が支配する地域に残り表向きはキリスト教に改宗したイスラム教徒、モリスコが住んでいた名残りである。白壁は太陽の光を反射して暑さを遮る役目をはたしており、毎年塗りかえるという。

ヨーロッパのどの国でもそうだが、観光をするときには必ず現地ガイドをつけなくてはいけない。で、ここは建前上は観光ではないことになっているから、添乗員Iさんはバスを降りると説明しているそぶりは一切みせず、無言で事前に案内した絶景ポイントに連れて行ってくれるだけ。そのあとは渡された地図を頼りの自由散策となった。

上は皆が写真を撮る“サン・セバスチャン教会”の前の通り。坂になっており、両サイドの白壁にほぼ同じ間隔で飾られた花が美しく映える。日差しが強く、トロピカルなムードが漂うところでは家の色はまぶしいくらいの白が一番あっているのかもしれない。

ミハスに限らず、コスタ・デ・ソルの町では多くのドイツ人が別荘をもち、太陽の日差しを求めて南下してくるようだ。昔、スイスのジュネーブで太陽が出ている時間が少なく、どんより曇った日が続くという生活を経験したので、ドイツ人がここに別荘を購入する気持ちはよくわかる。

一時間くらいこの町を楽しんあと、バスは来た坂道を下っていった。白い家の向こうに見える地中海(真ん中の画像)はいつか波の音を耳にしながら眺められたらいいのだが。セビリアに向かう途中、褐色の大地にオリーブの木が延々と続く光景をみた(下の画像)。全世界のオリーブの木8億本のうち2億本がスペインにあるという。もちろん世界一でイタリアより多い。

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2007.03.29

グラナダのアルハンブラ宮殿

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グラナダのアルハンブラ宮殿を見学したあとは幸せな気分になる。90年はじめて来たときは出張期間中にできた休日を使い一人で出かけたから、宮殿内ではその感激を分かち合う人がいなかった。で、帰国して隣の方やまわりの人に“アルハンブラ宮殿はすばらしいよ!スペインにある建築物では一番いいのではないか、感激するよ!”というフレーズを何度繰り返したかしれない。そのアルハンブラ宮殿への入場である。

スペインにあるイスラム教建築の特徴として、外観はそれほど見栄えしないから、入り口あたりでのワクワク感は普通。だけど、中に入ると全く例をみない豪華絢爛な内部壁面の装飾にびっくりさせられる。偶像や自然物を描くことを禁じられたイスラム教徒の職人たちには並外れた豊かな想像力や宇宙的な感性がDNAとして代々受け継がれているのかもしれない。

壁面や腰壁、柱、天井には同一モティーフが限りなく繰り返される。ここでの装飾のリズムは反復で生み出されるが、その形は自然物を連想させない抽象的なフォルムのほうがいい。で、幾何学模様のアラベスクが装飾の中心になる。これに植物模様、アラビア文字、鐘乳石飾りを加え、多種多様な装飾が施される。このなかで最も惹きつけられるのが鐘乳石飾り。

とくに“ライオン宮”にある“アベンセラーヘスの間”(下の画像)と“二姉妹の間”の天井にみられる鐘乳石飾りが圧巻。ここはアルハンブラ宮殿見学のハイライト。首が痛くなるのも我慢して前回同様夢中でみた。八角形の大きな星を思わせる天井からは細い三角柱や四角柱がいろいろ組み合わさって、鐘乳石のように垂れ下がっている。山口県・秋芳洞でみた鐘乳洞の凹凸を思い出した。

イスラム建築の鐘乳石飾りは預言者ムハンマドの話しがもとになっている。敵から逃れて、ヒラーの洞窟に隠れたムハンマドはここで大天使ガブリエルからコーランのインスピレーションを授かったという。この伝説により、鐘乳石は装飾要素のひとつとなった。この飾りは9世紀のペルシャで最初にみられ、12世紀には初歩的な形がスペインでも用いられた。そして、13~14世紀に建造されたこのアルハンブラ宮殿で究極の鐘乳石飾りが生まれる。

息をのむ天井装飾とともに写真を撮りたくなるのは水の上に宮殿が築かれたのではないかと錯覚する“コマレス宮”の“アラヤネスの中庭”(上の画像)。真ん中の長い池は“コマレスの塔”が映し出された巨大な水鏡になっている。コマレス宮は外交、政治活動の中心で、塔の下が“大使の間”。この“アラヤネスの中庭”は大使たちのための歓迎レセプションが開かれたり、スルタンに謁見する際の待合場所だったところ。

真ん中の“ライオンの中庭”にも水が静かに流れているのだが、中央の“ライオンの噴水”は現在、修復中でカバーがかけられていた。回廊に配された円柱の上部に見事な透かし彫りがみられる。これと口から水を出すライオンが一緒に観れたらどんなにか優美で静謐な世界に浸れたことだろう。“カルロス5世宮殿”に白大理石でつくられた12頭のライオンのうち2頭が展示してあったが、これだけみてもぴんとこない。でも、アルハンブラ宮殿の前に見学した世界遺産“ヘネラリフェ”で中央が掘割になり、両脇から水が噴出しアーチをつくっている“アセキアの中庭”を見たから、イスラム庭園特有の清々しい水の音を十分楽しむことができた。

このアルハンブラ宮殿見学では予想もしなかったエンターテイメントがあった。それはスペイン人ガイドさんのとびっきり面白い日本語による説明。昨年のピサ・フィレンツェ観光にもユニークな日本人ガイドさんがいたが、今回はスペイン人の漫談調おしゃべり。皆を笑わす間が実にいい。“ヘネラリフェ”では咲いている薔薇を指差して、“これは薔薇ですね。うちの上さんに似てます。棘がある!”、また奥さんを自慢して“うちの上さんはグラナダのミス。わたしはグラナダのミステイク!”皆ゲラゲラ笑いながらついて行く。

どこで日本の情報を仕入れるのか“そのまんま東さんみたいですね!”と最新のニュースまで知っている。説明するときの口癖が“これは本当の話、でもときどきウソもある”。年季のはいったガイドさんにも恵まれ、とても楽しいグラナダ観光だった。

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2007.03.28

コルドバのメスキータ

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スペインの南部、アンダルシア地方は人気の観光スポットである。コルドバ、グラナダ、セビリアはまさに黄金のトライアングル。二度目のグラナダ・アルハンブラ宮殿に胸が高まるが、はじめて訪れるコルドバ、セビリアにも熱い思いがある。

グラナダへ行く前に寄るコルドバのお目当ては“メスキータ(モスク)”。旅行パンフレットに載っている写真やTVで映しだされる映像をみて、いつかこのモスクのなかに入るのを夢見ていた。メスキータは紀元前1世紀に建造された橋がかかる川のすぐ近くにある。一部を修復中の“ローマ橋”は現在もクルマが走り人が渡っている。こういう光景をみるとヨーロッパが石の文化であることを実感する。と同時に、長い歴史をもつこの町の重みというか価値に目が引き締まる。

711年、ジブラルタル海峡をわたって進入してきたイスラム教徒がここに785年からメスキータを建設しはじめる。その後歴代の王によって増改築され、敷地面積は2万2千㎡におよぶ。上の航空写真で手前の“ミナレット”とよばれる塔のむこうがみそぎのための“オレンジの中庭”、そして中庭の隣から川沿いを走る道路のところまでが“礼拝の間”である。礼拝の間の入り口(シュロの門)から有料となる。

中に入って意外に思うのがこの建物がさほど高くないこと(床から天井までは11m)。だから、真ん中の“円柱の森”はイメージしていた壮大な空間ではなかった。見上げるような森ではないが、横への広がりが言葉を失うくらい美しく幻想的。白色の石と赤の煉瓦を交互に組み合わせた馬蹄形のアーチを上に架した円柱が850本狭い間隔で林立している。コルドバがキリスト教徒の手に再び落ち(1236年)、15世紀末カテドラルを建設したため多くのアーチが壊されこの本数になったが、もとは1000本以上の柱が立っていたという。まさに巨大な森にいる感じ。これだけ円柱があると迷路に迷い込んだような気分にもなる。中央のあたりに立つと、たぶん方向感覚を失うのでなかろうか。

見学コースの終わりにある最後の4期拡張工事(987年)で付け足された円柱は経費削減のため、アーチのところに使われていた石と煉瓦はなくなり、白と赤が塗装されていた。その話しがカメラのシャッターを押す寸前にイヤホンから聞こえてきたので、思わず手を止めた。入り口からは丁度つきあたりのところに、毎日祈りを捧げるメッカの方向を示す目印である“ミフラブ”がある。ここはモスクのなかではとても重要な場所。3期の拡張がなされたとき(962年)、正面上部を覆い尽くすビザンチンモザイクがビザンチン帝国皇帝から献上された。下の貝の形をしたクーポラになっている天井に施された黄金や紫、黄、うす緑、青などのモザイクや彫りの漆喰装飾はビザンチンの職人の手になるもの。

メスキータを見学する前、ここからあまり遠くないところにある旧ユダヤ人街で撮影タイム。なんでこんなところへ行くのかなと?だったが、入り組んだ細い道の両側の家のバルコニーや格子に飾られた花々をみて納得。白壁にきれいな花が映える上々の撮影スポットである。この“花の小道”を楽しむため観光客がひっきりなしにやってくる。この地区はイサベル女王によって追放令が出されるまで多くのユダヤ人が住んでいたところ。念願のメスキータが見れてコルドバも二重丸。さあー、次は期待のアルハンブラ宮殿!

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2007.03.27

ラ・マンチャの男、ドン・キホーテ

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マドリード観光に必ず入っているのが“スペイン広場”。スペインにはこのスペイン広場が多いが、マドリードのは特別有名。セルバンテスが書いた小説“ドン・キホーテ”の像があるので、誰もがこれを背景に写真を撮る。ガイドさんがここで面白い話をしてくれた。

初演から上演回数が1000回を超えるミュージカル“ラ・マンチャの男”の主役をつとめる松本幸四郎にたいして、昨年、ドン・キホーテの故郷、ラ・マンチャ地方の自治体が名誉市民の称号を贈るということになったらしい。で、スペインを訪問した松本幸四郎はまずラ・マンチャでのセレモニーに出席し、そのあとこのスペイン広場にも立ち寄り、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの像を感慨深げに眺め、涙を流したという。このことがマドリードのマスコミで大きく報道されたというのである。日本のメディアでこの記事を見なかったが、とてもいい話である。

マドリードから南下し、ラ・マンチャ地方の町、コンスエグラをめざした。町に近づくと丘の稜線に白い建物が見えてくる。ドン・キホーテの時代そのままの形に復元された風車(上の画像)が全部で7つあった。物語のなかで、ドン・キホーテが邪悪な巨人と見間違えて、突撃したはいいものの、こてんぱに大地にたたきつけられたあの大きな風車である。

風が強く吹いていたが、この風車は観光客用のモニュメントだから羽根は回らない。で、名優ピーター・オトゥールがドン・キホーテを演じた映画“ラ・マンチャの男”(1972年)のシーンをイメージし、しばし眺めた。風車はカルロス5世(1501~1558)が低地のネーデルランドから持ち込んだものだが、スペインの風土にあわなかったようで、間もなく廃れてしまった。でも、今では復元されて観光客の目を楽しませてくれている。

バスの中から見えるラ・マンチャの大地は石ころだらけ。荒涼とした感じで肥沃な土地ではない。背の低い葡萄畑を苦労してつくり、こういう土地でも育つオリーブの木を植えて人々は生活している。コンスエグラからしばらく走り、プエルト・ラピセという町についた。ここもドン・キホーテゆかりの町で、小説の冒頭に実名で登場する。ここにはドン・キホーテが泊まったといわれる宿屋、“ベンタ・デル・キホーテ”がある。もちろん、空想の人物が実際に泊まるわけはなく、物語を愛する地元の人たちが仕立てあげたもの。

下の写真が宿屋の入り口。今はレストランになっていて、小説にでてくる料理を食べさせてくれるらしい。中庭には古い甲冑を身につけ右手に槍を持ったドン・キホーテの像がある。料理を食べる時間がないので、ここで記念写真をパチリ。遍歴の騎士、ドン・キホーテと従士サンチョ・パンサの像にはいろいろバリエーションがある(真ん中の画像)。通りの向こうにあるお土産屋の壁に描かれたドン・キホーテはまた別の姿をしていた。

ミゲル・デ・セルバンテス(1547~1616)が聖書の次に読まれているといわれる小説“ドン・キホーテ”を出版したのは1605年。はじめから文筆家になろうと思ってたわけではない。軍人で出世しようと、1571年オスマントルコを打ち破った“レパントの海戦”に従軍したが、銃弾で左腕を失ったため、軍人の道をあきらめざるをえなくなる。

片腕が利かなくなったセルバンテスは“スペイン無敵艦隊”の食糧調達人としてラ・マンチャ地方を歩きまわっていたが、1588年、無敵艦隊がイギリスに敗北を喫したため失業する。ついで、徴税吏としてまたこの地方をうろうろしてたとき、可愛い娘に夜這いをかけて失敗し、捕らえられる。ブタ箱のなかで構想を練ったのが“ドン・キホーテ”。次の訪問地コルドバへ向かうバスの中では、ミュージカル“ドン・キホーテ”で歌われる名曲“見果てぬ夢”を心の中で口ずさみながら、ラ・マンチャの風景を目に焼きつけた。

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2007.03.26

トレドのエル・グレコ

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マドリードの南、約70kmに位置するトレドへは高速道路を利用すると一時間くらいで着く。この日は春のような陽気。巨大な岩山にのっかったような旧市街と町をぐるりと囲むタホ川が一望できる高台からの眺めはまさにエル・グレコが描いた“トレド風景”(メトロポリタン美)そのまま。大聖堂やアルカサルを背景に心もはずんで記念写真を撮る。24年前トレドへ来たときはここに寄らなかったので、いい思い出になった。

トレドは起伏の多い町で路地は迷路のように入り組んでいる。こういう町ではイヤホンがかえってマイナスになることがある。ガイドさんからすこし離れていても声だけはよく聞こえるから、安心してぼやっと歩いていると突然姿が見えなくなり、すごくあせる。知らない町ではあまりキョロキョロしないにかぎる。

トレド観光の目玉はエル・グレコ(1541~1614)の絵画鑑賞。まず、大聖堂で“聖衣剥奪”(拙ブログ05/8/26)を観て、そのあとサント・トメ教会にある上の“オルガス伯の埋葬”を見学する。大聖堂では宝物室に飾られた高さ2.5mの金銀、宝石で作られている“聖餅顕置台”に目を奪われる。前回写真を撮っているのにすっかり忘れていた。その隣にはイサベル女王の王冠がある。

お目当ての“聖衣剥奪”は聖器室の正面に飾ってあった。ユダに裏切られた後、キリストが兵士たちに捕らわれ、不用となる外衣を剥ぎとられる場面が描かれている。前回感動した外衣の真紅が昔のように輝いていない。時の経過とともにやはり色がすこしずつ落ちていくからだろうか?それとも昔と今の色の鮮やかさに変化はなく、前はこちらの感情が昂ぶりすぎて強い赤が見た目以上に印象づけられたのだろうか?赤色の強さは横においてもこの絵には魅せられる。

これはグレコがローマからトレドにやってきた直後の1577年に依頼された。完成したとき、注文主の大聖堂側から“群集の位置がキリストの頭より高い、左のマリアたちが聖書の記述にない、だから描き直してくれ、でないと金は支払わない”とクレームがつく。でも、こんな指摘にひるむようなグレコではない。このギリシャ人は訴訟を起こしてまでも、権力に屈することがなかった。グレコは若い頃、あのユダヤ商人が跋扈するヴェネツィアに住み、絵の修行をしたから、タフな金銭感覚が身についたのかもしれない(04/12/11)。以後グレコの絵画制作は頻繁に訴訟沙汰になる。

最高傑作といわれる“オルガス伯の埋葬”とも感動の再会である。この絵は教会の右翼の奥にある。画面は二つの部分にわかれていて、下のほうにオルガス伯の埋葬が、上方にオルガス伯が天国の法廷に迎えられる様子が描かれている。金が象嵌された立派な鎧をつけたオルガス伯の遺体を両腕にかかえて持ち上げようとしているのが奇跡の聖人、アウグスティヌス(右)とステファヌス(左)。聖ステファヌスの前で死せる伯爵を指差す黒衣の少年はグレコの息子。

グレコは260年前に亡くなったオルガス伯爵の葬儀を自分と同時代の出来事として描いた。二列目に黒の喪服を着てびっしり隙間なく立っている参列者はこの絵が描かれた1586年頃実在した貴族、司祭、修道僧たちである。左から7人目がグレコの自画像といわれている。人々を当世風の衣装で描くのは日本の浮世絵師、鈴木春信が得意とした歴史的事実や物語から題材をとり当世風の人物や風俗に置き換えて描いた“見立絵”と同じ発想である。埋葬の場面では人物は写実的に描かれ、悲しみの気配が漂い、厳粛な気持ちになるのに対し、寒色の色調、ひき伸ばされた人体、不自然に体をよじる姿勢といったグレコ独特の画風で構成されている上の場面は、精神性の高い神秘的な世界である。

マニエリスム様式を受け継ぐ異様にひきのばされた人体や群像を画面の下から段々に積み重ねて見る者の視線を上方に引き上げていく構図が、真ん中の“受胎告知”(プラド美術館、部分)や下の“羊飼いの礼拝”(プラド)にも顕著に見られる。“受胎告知”はほかの画家の構成とは異なり、グレコは滑降する聖霊の鳩によって発せられた神の光により、マリアがキリストを受胎した瞬間を描いている。最晩年に制作された“羊飼いの礼拝”には心を揺すぶられる。まわりは洞窟を思わせるように真っ暗。白いヴェールの上の幼児キリストを源とする聖なる光がマリア、ヨセフ、そして上のほうで舞い踊る天使に広がっていく画面に吸い寄せられる。

エル・グレコに魅せられてから随分時が経つが、今回の鑑賞でグレコの絵がさらに近くなった。グレコが愛した町、トレドをいつかまた訪れたい。

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2007.03.25

ピカソのゲルニカ

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国立ソフィア王妃芸術センターでピカソの傑作、“ゲルニカ”と再会した。前回みたのが
90年だから17年ぶりの対面である。場所はここではなく、プラド美術館の別館。縦
3.5m、横7.8mの大画面に白黒のモノトーンで描かれたこの歴史的な絵は防弾ガラスの囲いの中に閉じ込められていた。

ソフィアに移ったのは93年。てっきりいまでもガラスのなかに入っているのだろうと予想していたが、これはいい方にハズレた。入館する際、持ち物はチェックされるからもうガラスのなかに入れておく必要がないのだ。ソフィアセンターの訪問はゲルニカ鑑賞のためだけ。男性の現地ガイドさんはここにあるほかの現代絵画や彫刻作品などについては一切説明しないで、わき目も振らず3階の“ゲルニカ”が常設展示してある部屋に誘導していく。

“皆さん、これが有名なピカソのゲルニカです。ええーこの絵が。。。”このガイドさんは“ゲルニカ”が制作された時代背景、絵の見所、描写の特徴などを美術史家のように滔々と熱く語る。ご高説は割愛させてもらい、ゲルニカのまわりに飾ってある下絵やピカソのほかの作品、そしてミロの絵やゴンザレスの彫刻などをイヤホンで説明の時間経過を確認しながら、3回くらいまわってみた。

迷宮美術館が以前とりあげたゲルニカの制作過程のなかで、ピカソが本画を描く前の下絵(45枚)の段階でモティーフの表現の仕方をいろいろ模索したことをかなり丁寧に解説してくれていたから、これらの下絵を食い入るようにみた。例えば“泣く女のデッサン”は白黒のほかに赤と青が部分的に使われており、この絵がはじめからモノトーンにすると決まってなかったことが窺がえる。本画の右手前にいる腰をかがめ異様に大きな足を広げ前に進む女の左目には完成直前まで赤い涙が描かれていたという。で、レクチャーの輪の中に戻り、女の目元をみた。赤い涙はたしかにない。

ゲルニカのなかで感情を揺り動かされるのは、左側の牡牛の下に描かれた死んだわが子を抱きかかえ号泣している女、真ん中で傷を負い首をよじらせていなないている馬、そして絶望のあまり発狂寸前のパニックに陥いり、両手を上にあげている右側の人物。ピカソは牡牛や馬、泣く女を登場させ、戦争の恐ろしさや悲惨さを象徴的に表現した。戦争の犠牲になった人間の苦しみや悲しみが対象の極端なデフォルメとゆがめられたフォルム、モノトーンで表現されたこの絵はリアルな戦争画以上に見る者に訴える力を持っている。プラドでみたゴヤの“5月3日の処刑”同様、200%心をうたれた。

真ん中の絵は“ゲルニカ”の手前にあった“ハンカチをもって泣く女”。ロンドンのモダンテーにある“泣く女”の別ヴァージョンで、“ゲルニカ”が制作された1937年と同じ年に描かれた。ピカソの作品はほかにも彫刻を含め沢山展示してある。ガイドさんの名調子の解説がなかなか終わらないので、隣の方をつついて下絵や“泣く女”、ミロの名画のところへ連れていった。

大好きなミロの絵が4、5点あった。これはビッグなオマケ。下はその中で一番ぐっとくる大作、“カタツムリ・女・花・星”。館のパンフレットに載っているシュルレアリスト、ダリのいい絵も見たかったが、迷い子になって皆さんに迷惑をかけてはいけないから諦めて、一緒にトレドへ向かうバスに乗り込んだ。

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2007.03.24

ルーベンス、デューラー、レンブラント

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プラド美術館の絵画のなかで、ルーベンス(1577~1640)の作品はゴヤに次いで多く、80点近くある。これはルーベンスが亡くなったとき、フェリペ4世が残されたコレクションのうちルーベンス作品の大半を買い上げたからである。為政者としての能力はからっきしダメだったフェリペ4世はルーベンスの絵が好きで、外交官ルーベンスがイギリスとスペインの和平のため1628年から29年にかけてマドリードに滞在したとき親交を深め、絵の制作を何点か依頼している。

これまでの訪問でルーベンスの絵は時間をかけて観たという思いがあるので、今回の必見リストには特に入れてなかった。で、古典画、神話画、肖像画、ティツィアーノの絵の模写などをさぁーッと観た。でも、バロック様式の巨匠の絵だから、前を通りすぎるだけといっても画面が目の中に入ってくれば心拍数は少しずつ上がってくる。どうしても見蕩れてしまう代表作の一つ、“愛の園”はフェリペ4世の寝室に飾ってあったもの。

この絵とともに印象深いのが上の“三美神”。古典画の形式を踏襲しているが、裸婦の透明感のあるふくよかな肌は理想化して描かれてはおらず、現実感があり生気にあふれている。当時は肉づきのいい女性の体の線がもてはやされていたから、ルーベンスの感性はこういう女性に理想美を求めたのであろう。太り肉のプロポーションについては好みがわかれるところ。“ルーベンスはどうも苦手!”という人は大体この豊満な肉体描写に拒否反応を示す。

画面左の美神はルーベンスの2度目の妻、エレーヌがモデル。1630年末、53歳のルーベンスは16歳のエレーヌと結婚する。晩年のルーベンスの作品に登場する肉感的な金髪の裸婦がこの若い妻、エレーヌに霊感を得ていることは明らか。プラドの“パリスの審判”に描かれたヴィーナスやウィーン美術史美術館所蔵の“ヴィーナスの祝祭”で年をとったサテュロスに抱き上げられた左端のニンフにエレーヌの面影がある。ルーベンスの絵には“聖ゲオルギウスと龍”のようにこれぞバロック!といったエネルギッシュで劇的な場面を描いた作品は沢山あるのに、今回だけはこれにコラボしてのめり込む時間がない。

ドイツルネサンスの大画家、デューラー(1471~1528)の“1494年の自画像”(真ん中の画像)は足をとめてみた。デューラーは自分の容貌に誇りをもっていたというが、たしかにびっくりするほどいい男である。この絵は半年間のヴェネツィア滞在(拙ブログ04/12/7)から戻って3年後の作品。このときデューラーは27歳。これほどかっこいい肖像画はほかにない。はじめてこれを観たときは美しい女性の絵をみるような感情が湧き起こった。

長い波打つ巻き髪の細密描写がとにかくすごい。まずこれに目が点になり、さらに貴族が着るような優雅な服装に見とれてしまう。そして、手袋までしている。この時代、身分と違う服装で町を歩くと罰せられ、手袋を使うのは手仕事をしない人に限られていた。だから、デューラーはこういう服装や手袋をしていたのではなく、想像でこの自画像を描いた。いつかこういう上品な貴族になりたいという願望の表れである。晩年、デューラーは名の知れた画家になり、若い頃抱いた夢は実現される。

下の絵は大変感動したレンブラント(1606~1669)の“ソフォニスバ”。古代ローマ時代の物語を絵画化したすばらしい絵である。明るい光があたり白く輝く衣装と目鼻だちの整った顔と背景の黒のコントラストが見事。そして、衣装の細かな模様や装飾的な杯の精緻な描写にも驚かされる。リストに入れていた作品ではあるが、予想以上にいい絵だった。オランダの絵があまりないプラドでレンブラントの一級の絵に会えたのは望外の喜びである。

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2007.03.23

ティツィアーノの神話画

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“ティツィアーノとルーベンスの絵をみたければプラドへ行け!”といわれるほどこの美術館には両巨匠の名画が沢山ある。今回の楽しみの一つが36点あるティツィアーノ
(1485~1576)の作品。過去2回の鑑賞で肖像画の傑作、“カール5世騎馬像”や下の“ダナエ”はよく覚えているが、ほかは感動を体の中にとどめたという確たる記憶がない。理由は明白。当時はまだ、鑑賞の対象としてティツィアーノは入ってなく、ティツィアーノとティントレットの絵が区別つかないくらい関心が低かったのである。

ティツィアーノに開眼したのは93年、ボストンにあるガードナー美術館で最高傑作といわれる“エウロペの略奪”(拙ブログ05/05/25)をみてから。そのあとヴェネツィアのサンタ・マリア・デイ・フラーラ聖堂に飾ってある“聖母被昇天”、昨年のボルゲーゼ美術館の“聖愛と俗愛”(06/5/22)などとのエポック的な遭遇があり、今はこの画家の絵を見ているととてもいい気分になる。だから、1階と2階にあるティツィアーノの部屋では画集に載ってる代表作を画像コピー入りチェックリストで確認しながら、興奮状態でみてまわった。“この絵はここにある、隣の絵がこれだ!”という調子。ここの所蔵作品が常時展示してあるわけではないから、リストの絵が見あたらなくてもおかしくないのに見逃したのではと、時間がないのにまた前の部屋に引き返したりする。

ティツィアーノは48歳のときカール5世の宮廷画家になって以来、ハプスブルク家一族の肖像画を多く手がける。カール5世のほかにも皇后イザベル、フェリペ皇太子、そして国王になったフェリペ2世の肖像画がある。昨年あった“プラド美展”には“皇帝カール5世と猟犬”、“フェリペ2世”の2点が出品された。今回注目したのは肖像画よりもギリシャ神話などを題材にした作品。ヴェネツィア派の特徴である鮮やかな色彩で描かれた神話画が次から次と目の前に現れる。“プラド美展”に展示されて多くの人をうっとりさせた“ヴィーナスとオルガン奏者”(06/2/26)と再会した。隣にクピドが枕に代わっている別ヴァージョンがあったが、色の輝き、細部の筆致は東京都美にきたほうが断然いい。

神話画のうち是非とも見たかったのが上の“ヴィーナスへの奉献(キューピットたち)”と真ん中の“バッカス祭(アンドロス島の人々)”。“キューピットたち”はヴィーナスの神殿がある林檎の果樹園で大勢のキューピットたちが林檎遊びに興じているところが描かれている。林檎はヴィーナスの果実で、生の喜びのシンボル。ルーベンスの絵でキューピットが沢山登場するのを何点かみたことがあるが、ティツィアーノのこの絵がモデルになっているに違いない。人数を数える時間はないが、多くの可愛いキューピットたちがふざけあったり、取っ組み合ったり、抱き合ったりしている。これほどバリエーションに富んだ動きと表情をしたキューピットをみたのははじめて。“聖母被昇天”や“聖愛と俗愛”にも愛らしいキューピットが描かれており、ティツィアーノはラファエロ同様、キューピット描きの名手である。

“バッカス祭”では右手前に描かれた酩酊して眠りこける裸婦のニンフに目が集中し、その官能的なポーズに心がざわざわしてくる。この絵のテーマは“アンドロス島を流れる葡萄酒の小川とその小川の酒を飲んで酔っ払ったアンドロスの人々”。酒席の楽しい雰囲気が伝わってくるようで、仲間に入れてもらいたくなる。笛を持って横たわる二人の若い娘の前に置かれた楽譜にはフランス語で“酒呑んで盃かさねぬ者は酒呑むことを知らぬ者”と書かれている。

下の“ダナエ”はティツィアーノがフェリペ皇太子のために制作した絵。拙ブログでレンブラント(05/5/26)とクリムト(06/11/5)が描いた“ダナエ”を取り上げたが、このティツィアーノの絵にもすごく魅了される。久しぶりの対面。性格が悪そうな召使の老女が天から降りそそぐ黄金の雨(ゼウス)を前掛けで集めている姿とやわらかい肌をした優美なダナエをしっかりみた。

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2007.03.22

ルネサンス・北方絵画の傑作

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美術館で絵画を鑑賞したあとずっと印象に残っている絵がある反面、だんだん記憶が薄れてくる絵もある。記憶にとどまらない絵はそのとき見てなかったか、見たいと思う気持ちが弱かったかいずれかである。でも、時が経つにつれて、どっちだったかわからなくなる。

今回のプラド訪問でなんとかリカバリーし、目に焼きつけたいと思った作品がベラスケスやゴヤ、ボス以外にもある。それが真ん中のフラ・アンジェリコの“受胎告知”と下のファン・デル・ウェイデンの“十字架降下”。90年、この美術館を訪問した際購入した図録(日本語版)にはどういうわけか、白黒の図版しか載ってない。あまりに味気ないので、絵葉書を沢山買い込み、実際の絵の印象を体に染み込ませてきた。で、今回やっと色つき図録を手に入れた次第だが、図版をみてがっかりした。00年に初版が発行されているのに実際の色がよくでてないのである。印刷会社の技術レベルがイマイチなのかもしれない。最近、海外の美術館で買った図録では一番色をひろってない。これはまったく想定外。

感激の2点のまえに前回熱心にみた上のボッティチェリの面白い絵、“ナスタジオ・デリ・オネスティの物語”のことから。これはボッティチェリ(1445~1510)が構想し、実際には工房の弟子たちが描いたといわれている。ボッカチオの“デカメロンの物語”に題材を得た4連作で、プラドに最初の3枚があり、最後の場面は個人蔵になっている。上の絵は三番目の場面。真ん中で両手を上げているのがナスタジオ。横は怖い光景。裸の女が2匹の猟犬に太腿を噛まれている。右で白馬にまたがり猟犬をけしかけているのがこの女を恋してしまった騎士。

どうして、好きな女を怖い目にあわせているのか?その理由がちょっと身勝手。女が自分になびいてくれないのでこの騎士は自殺してしまう。ところがこの男(幽霊)は女の愛情のなさを恨み、その罪の深さをわからせようと猟犬を使ってつかまえ、心臓をえぐり出し犬に食わせるという残虐な行為におよぶ。が、不思議なことに死んだはずの女は起き上がり逃げていく。そして、逃げる女を騎士と猟犬が追っかけていく。これが延々と続く。これをたまたまみたナスタジオは仰天する(この場面が前の2枚に描かれている)。

で、ナスタジオは自分が愛している恋人も同じようにこっちを向いてくれないので、恋人と一族を宴会に招待し、この恐ろしい場面を見せる。するとこの脅しがしっかり効いて恋人は心を開き結婚に同意する(これが最後の絵に描かれているとのこと)。ちょっとサディスティックな場面だが、ボッティチェリの特徴である優雅な線で描かれた人物と動感表現に心を揺すぶられる。

フラ・アンジェリコ(1395~1455)の“受胎告知”はフィレンツェのサン・マルコ修道院にある同名の作品と並ぶ傑作。サン・マルコのが抑制ぎみで静かな雰囲気に包まれているのに対し、この“受胎告知”に描かれた救世主の身ごもりを告げる大天使ガブリエルとそれを聞くマリアの間には緊張感があり、劇的な感じがする。左斜め上から出てくるゴールドの線状の帯には聖霊を表す鳩がいる。そして、左の遠景はキリストの贖罪の原点であるアダムとイヴの楽園追放の場面。大天使の金色の翼、マリアが着ている目の覚めるような青の衣装、そして金光に吸い込まれそうになる。本当にいい絵をみた。

ファン・デル・ウェイデン(1399~1464)の“十字架降下”も驚愕の一枚。美術本には数ある“十字架降下”のなかで一番の傑作と高く評価されているが、実際この絵の前に立つとそれを実感する。十字架からおろされたキリストより、気絶した聖母マリアの姿に視線が集中する。よくみるとキリストとマリアの体は同じ形。リアルな感情表現、鮮やかな青や赤、緑などの色使い、そして衣装の襞までしっかりとらえた細部描写に200%KOされた。一生の思い出になる名画との遭遇に腹の底から嬉しさがこみ上げてきた。

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2007.03.21

プラドで超人気のボス

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美術館に入ってすぐ向かったのが1階のボスの絵がある部屋。前回、ボスの傑作、上の“快楽の園”はしっかり見たものの、この美術館が所蔵する世界一のコレクション(6点)のうちほかの絵のことはすっかり記憶から消えてしまった。“快楽の園”に満足しすぎして、ほかの作品はもう感動の大きな袋のなかに入る余地がなかったのか、あるいは展示してなかったのかもしれない。

で、3度目のプラドではこのリカバリーに多くの時間を割いた。お目当ての一枚が真ん中の“乾草車”。そして、もう一点、第二のボスと呼ばれたブリューゲルが描いた“死の勝利”。予定ではこの2点と“快楽の園”をみて、次のターゲットに向かうはずだったが、あと3点ボスの作品があった。下の“阿呆の治療”と“東方三博士の礼拝”、そして“聖アントニウスの誘惑”。これらの絵がプラドにあったことをおぼろげながら思い出し、連鎖反応でもう1点“七つの大罪”もよみがえってきたが(これで6点)、これは展示してなかった。ボスの絵が想定外に多くなり、テンションがぐぐっと上がった。作品にあんまり近づくので監視員に二度も注意される始末。

ベラスケスやゴヤの絵よりも、ボス(1453~1516)が超想像力を使って描いた奇妙な世界を堪能するためにわざわざプラドを訪れる人は結構いるのではないだろうか。特に人気のある“快楽の園”の前では大勢の人が熱心に鑑賞している。ボスの作品は現在、大半がスペインに所蔵されている。ここの6点はフェリペ2世のコレクションだったもの。ボスは生地、ネーデルランドの町スヘルトーヘンボス(今のオランダ南部)で絵の制作に励んだが、最初の頃、ほとんどの人はボスをただの“怪物や幻獣の創造者”にすぎないと考えていた。

16世紀中頃この悪魔的な絵を収集したのがスペイン人ゲバラで、この男の死後、フェリペ2世(1527~1598)がそのコレクションを引き取った。29歳で国王になったフェリペ2世は21歳の頃はじめてスペインを離れ、ドイツ、イタリア、ネーデルランドに長期滞在した。そのときボスを発見する。1584年に完成したエル・エスコリアル宮殿(マドリード郊外)にあるこの王の私室はあまり広くない質素な部屋だったが、ここでボスの絵を楽しんでいたといわれる。

“快楽の園”は保存状態がとてもよく、色彩の美しさに感動する。三連画の中央に表現されているのが官能的な地上の快楽、人間の罪深い所業の数々。そして、左翼には原罪を表すイブの創造の場面が、右翼には罪に対する罰としての地獄の光景が描かれている。ここに登場するほそっとした姿の裸の人間はところどころで植物や動物、卵などに変身する。美しくもあり、不条理でエロティシズムにあふれる世界だ。
地獄の画面の真ん中に大きく描かれた“樹木人間”にドキッとする。2隻の船の中に木の形をした脚を入れ、後ろは穴のあいた卵の形をしている。幅広の帽子の下からこちらを見ているのはボス自身であろうか。日本の地獄絵でもそうだが、罪人は獄卒の悪魔から種々の刑をうける。男がハープの弦にはりつけにされたり、龍が巻きつくリュートに縛りつけらりたりしている。細部までじっくり観てボスが伝えようとする寓意や象徴を解き明かせれば面白いが、今回は残念ながら時間的余裕がない。

真ん中の“乾草車”も“快楽の園”と同じ三連祭壇画。描かれたのは“乾草車”のほうが先。この絵はエル・エスコリアル宮殿にもうひとつのヴァージョンがあるらしい。巨大な乾草車が広大な風景のなかを右のほうへ横切っていく。怪物が車を引っ張り、後ろから教皇や皇帝、王といった世俗の権力者たちが馬に乗って進む。荷車の横が騒がしい。よくみると、民衆は乾草を我先に引き抜こうとし、喧嘩までし始めている。絵のテーマであるフランドルのことわざ“この世は乾草の山であり、だれもがありったけをつかみ取ろうとする”に即納得する光景である。乾草車は現世の財産を表し、世の中こぞってそれに同行するが、乾草車はやがて右の地獄へと転がっていく。

下の“阿呆の治療”は滑稽な絵。絵の外枠に“先生、わたしのあたまから石を取り除いて下さい。わたしはルッベルト・ダスと申します”と書かれている。当時、愚かなのは頭の中に愚かしさの石があるからで、それをとれば馬鹿も直るという迷信を信じる人がいた。で、外科医はそのお馬鹿さんの頭を切り裂く手術をし、金を儲ける。絵はこれを絵画化したもの。

石を取り出す手術といえば、ボスの時代、いかさま行為の代名詞だった。オランダの文学では超お馬鹿さんを表すときにこのルッベルトの名を使っていたという。不思議なのは外科医と尼僧の頭に漏斗や本をおいていることや治療してもらってるお馬鹿さんの頭から取り出しているのは石ではなく、花であること。いかさま医師はカモからお金を巻き上げるには仲間と組んで手の込んだ演出をする必要があったのだろう。

今回の鑑賞でボスの代表作の7割を見たことになる。大収穫のプラド美術館見学であった。

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2007.03.20

ゴヤのマルチ画風に感服!

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プラド美術館の入場口の前にゴヤの肖像彫刻がある。館の正面側に像があるベラスケスと同様、ゴヤはここスペインでは特別な存在だ。ゴヤ(1746~1828)の絵をプラドは170点所蔵している。これは巨匠たちのなかでは一番多く、2階と3階の多くの部屋がゴヤの作品にあてられている。

事前の鑑賞シミュレーションでは女性画とタペストリーの下絵として制作された風俗画、“黒い絵”シリーズをもう一度しっかり見ようという作戦を立てた。結果は出来すぎというくらい上手くいった。最後の10分は走りながら見たという感じで、あわただしかったが、望みの絵はだいたい目の中におさめたので、出口では満ち足りた気分だった。

誰しもそうだろうが、はじめてこの美術館を訪れたときはまず、代表作の“着衣のマハ”、“裸のマハ”を一生懸命になってみる。そして、“この絵のモデルは誰だ?”とか、“カトリックの厳しい戒律のなかで、どうしてこんな生身の裸婦が描けたのか?”などの情報をかき集め、自分でまた想像力をふくらましていく。ゴヤとアルバ公爵夫人との関係はピカソの女性遍歴よりずっと面白い。

挑発するようなポーズのマハで一回目のショックを受け、次に耳が聞こえなくなった後に描かれた人間の内面がそのまま表情に出ているような肖像画や戦争の悲惨さや人間の魂の叫びを表現した重苦しくて、衝撃的な絵に遭遇し、へなへなになる。こちらの方が衝撃度は大きい。2回目のとき時間をかけて見た“巨人”や“黒い絵”シリーズの“わが子を食らうサトゥルヌス”は一生忘れないだろうなと思うほど胸にズシンと響いた。

ゴヤの絵についてはだいたいこんなイメージをもっていたが、プラドのあとメトロポリタン美術館で見た赤い衣装を着た男の子を描いた“マヌエル・オソーリオ・デ・スーニガ”に
200%感動した。以後この絵がルノワールが描く少女画とともに大好きな一枚になった。だから、今回可愛い子供の肖像画を見るのがお目当ての一つだった。上がその絵、“オスーナ公爵夫妻と子供たち”(部分)。こんなに可愛い男の子と女の子がいようかと思われるくらい愛らしい。人間へのあたたかいまなざしが内にあるからこそゴヤはこれほど美しい肖像画を描けるのである!

深く人間を見つめるゴヤは戦争の悲惨さもきっちり描き、見る者に深い共感をよびおこす。真ん中は有名な“1808年5月3日、マドリード ピリンシペ・ピオの丘での銃殺”。この絵はいつみてもこたえる。銃を構えるナポレオン軍の兵士は一様に顔を隠し、機械のように描かれているのに対し、光をうけて白く輝くシャツを着た男の右手のひらには殉教のキリストのように聖痕がみられる。

最後の力をふりしぼって、ゴヤが73歳のときマドリード郊外の家の食堂とサロンの壁に描いたという14枚の“黒い絵”をみた。前回目に力が入ってなかったもので今回、注目してみたのが“棍棒での決闘”と下の“砂に埋もれる犬”。“犬”は現代絵画といってもいいすごい絵。頭だけのぞかせる犬はまもなく流砂にのみこまれるのであろうか。じっとみているとジーンとくる絵である。犬は音を失ったゴヤ自身の心情を表しているともいわれる。これからはゴヤの絵としっかり向き合おうと思う。

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2007.03.19

プラド美術館 ベラスケス

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マドリード観光の楽しみはプラド美術館にある名画と国立ソフィア王妃芸術センターの超目玉作品、ピカソのゲルニカの鑑賞である。プラドでは日曜日は入場者が多いため、現地のガイドさんが中に入って絵の説明をすることが禁止されている。で、参加者は自由に1時間鑑賞することになった。

名画が沢山あるので1時間ではとても足りないが、皆が美術好きとは限らないからこれは致し方ない。1時間を目いっぱい密度の濃い鑑賞とするため、出発前、目に力をいれて観る作品とさらっと流す作品を分け、まわる順番をガイドブックにでている展示品の配置図でおおよそ決めておいた。ただ、配置替えは頻繁にあると注意書がされていたので当日もらった最新の配置図で最確認してスタートした。手には必見名画をコピーした画像入りリストを握り締めている。まずはベラスケスから。

所蔵52点のうち、過去2回の鑑賞経験のとき印象が薄かったり、見落とした作品でその後、観る力がつき関心度が増した絵を中心に大急ぎでみてまわった。なにしろ1時間しかないから、一つの絵にあまり時間はかけられない。観たい絵がリストにはびっちり載っているのである。

上のベラスケス(1599~1660)の代表作中の代表作、“ラス・メニーナス(女官たち)”は17年前、じっくり観たとはいえ、通りすごすわけにはいかない。とにかく大きな絵で、“傑作を見たぞ!”と感動する絵。何度みても不思議な構図である。右の窓からの光をあびて優雅に立つ王女マルガリータの愛らしい丸い顔と白が輝く衣装に視線が集中する。と同時に右端にいるおばさんのような大きな顔をした小人、マリバルボラが目にとびこんでくる。この小人はマルガリータのかわいらしさの引き立て役だが、見る者にとってはズキンと心にのこるほどの存在感がある。

印象派の先駆けとも言われる描法が前景の登場人物の衣装にみられる。近くではまだらな斑点のような素早いタッチだが、すこし離れてみると色彩が明確になり、生き生きとした感じになる。左のほうにいる画家、ベラスケスはこちら側にいる国王夫妻の肖像を描いている。5歳のマルガリータは“ベラスケスのおじさん、私ちょっと観に来たんだ!観てていい?”とでも言っているのであろうか。

後ろの戸口のところに侍従が階段を上がりかけ、こちらを見ている。この“戸口”が訳ありなのである。昨日、クエンカの現地ガイドさんがベラスケスについて面白い話しをしてくれたと書いたが、そのことについて少々。ベラスケスは19歳のとき師匠の娘フアナ16歳と結婚し、翌年長女フランシスカが生まれた。その娘は14歳のときクエンカ出身の20歳の男と結ばれた。父親は旅宿を営んでおり、そこに嫁いだのである。その宿が今でもホテルとして残っており、ガイドさんが部屋を案内してくれた。

ベラスケスは娘が結婚したときは34歳で以後、この旅宿によく来たという。なかにベラスケスの肖像画が飾ってあった。ガイドさんによると“ラス・メニーナス”に描かれた後ろに戸口のある部屋はこの宿の部屋がモデルだという!戸口の向こうの階段は下がっているので絵とは逆になってはいるが。これはいい話しを聞いた。こんなことはどのベラスケス本にもでてこない。

日本に戻りいろいろ調べたら、娘が結婚したクエンカの男はベラスケスの弟子、デル・マーソ(1610/15~1667)だった。昨年あった“プラド美展”(東京都美)に出品されていた“皇妃マルガリータ・デ・アウストリア”を描いた一級の画家である。ちなみに、マーソは1660年ベラスケスが亡くなると、首席宮廷画家になっている。

真ん中の絵は前回、傑作“ブレダ開城”と共に色彩の輝きと巧みな画面構成に200%驚愕した“皇太子バルサタール・カルロス騎馬像”。前足を上げた躍動感溢れる馬にまたがる王子の凛々しい姿と背景の澄んだ明るい青で表現された空と山々に目を奪われる。見事な肖像画である。

今回しっかり見たのがルーベンスのアドバイスを受けて描いたといわれる神話画、下の“酔っ払いたち(バッカスの勝利)”、“ヴァルカンの鍛冶場のアポロ”、そして“織女たち”。カラヴァッジョもバッカスや聖書の物語を画家自身や市井の人々をモデルに使い,制作したが、ベラスケスの“バッカスの勝利”ではさらにくだけて同時代の若者や農民が描かれている。農民の一人に葡萄の葉の冠をかぶせているバッカスの表情がなかなかいい。

女神ミネルヴァと織りの技を競って、女神の怒りを買い蜘蛛にさせられたアラクネの話しを絵画化した“織女たち”も風俗画仕立ての絵で、日常的なタペストリー工房が舞台になっている。忙しい鑑賞ではあったが、ベラスケスの名画を堪能した。

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2007.03.18

クエンカの渓谷と宙吊りの家

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この旅行ではじめて知った地名が二つある。スペインのクエンカとポルトガルのエボラ。クエンカはバレンシアからマドリードの中間点、ややマドリード寄りのところにある。標高1000mの高原にあり、4万人が住んでいる。行程表には“世界遺産の町、宙吊りの家”見学となっているが、旅行本にはこの町のことは少ししか書かれてないので何が楽しいのか見当がつかなかった。で、期待値もそれほど高くない。

バスを降り、昼食を食べる元修道院を改築した国営ホテル、パラドールに向かってすこし急な坂を登っていると、添乗員さんが左手に流れるウエカル川の対岸上に見える“宙吊りの家”(真ん中の画像)を教えてくれる。だが、10人いれば10人“あれがどうして宙吊りなの?”と感じるのではなかろうか。そのときは後から、近くに行くとのことだから、あまり詮索せずパラドールに入った。

スペイン好きの人には中世の頃古城や修道院、貴族の館だったパラドールに宿泊するのも楽しみの一つらしい。全国で90ヶ所あるという。確かに中庭があり、壁や天井に宗教画や古典画が描かれた部屋など歴史を感じさせる建築物で食事をするのも悪くない。メインディッシュの豚にバレンシアの中央市場で感じたのと同様の匂いが少しあり、ちょっとブルーになりかけたが、なんとか全部食べた。慣れればOK。

さて次はあの“宙吊りの家”を見学するのかと、大きなワクワク感もなくバスに乗りまわりを眺めていると、これまで観たことのない奇岩が現れてきた。徐々に岩々のスケールが増し、迫力ある景観に目を奪われる(上の画像)。かつては海底にあった石灰岩層が隆起し、後にウエカル川に削られてできた自然の芸術である。ミニカッパドキア風の渓谷をぐるっとまわり、観光客が集まる峠の見晴台で写真タイムとなった。

眼下に先ほど食事をしたパラドールが見える。旧市街とパラドールがある対岸には吊り橋がかかり、下の渓谷はかなり深い。橋の近くにあの“宙吊りの家”がある。すこしずつこの町の地形がつかめてきた。家を見る前、現地ガイドの話しを聞きながら、1時間くらい大聖堂がある町の中心部を散策した。

14世紀に建てられた“宙吊りの家”は近くでみると、下の写真のように各階のベランダは崖から出ている。これで“宙吊り”と呼んでいるのである。でも、家が宙にぶらさがっているわけではないから、この呼び方と実際の光景にはギャップがある。ただ、横からみると一度最接近してみた鳥取県にある三徳山・投入堂(国宝)を彷彿とさせる。現在、この家は抽象美術館&レストラン。バスにもどる途中、吊り橋を通ったが、高いところはあまり好きではないので下を見ず、足早に渡った。

市内観光でガイドさんがベラスケスが泊まったというホテルを案内してくれ、とても興味深い話しを聞かせてくれた。これは明日のプラド美術館のところで紹介したい。

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2007.03.17

バレンシアナイトはスペイン料理の定番パエリア!

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バルセロナから地中海沿いに36km南下するとスペイン第3の都市、バレンシア(人口80万人)にたどりつく。名前は知っているが、必見の名所が特にあるわけではない。でも、スペイン料理の定番、パエリアの発祥地がバレンシアであることはちゃんと頭の中に入っている。だから、このツアーでの最初の夕食に登場するパエリアに期待が高まる。

上の写真は出来上がったばかりの“シーフードパエリア”。ガイドブックによるとバレンシア風のパエリアの具はウサギの肉、インゲン豆、カタツムリらしい。現地の人ならこれがいいのだろうが、ウサギの肉はクセがありそうで日本人の口に合うかどうか?昔、バルセロナで食べたのもシーフードだった。

このときの経験からすると、パエリアを美味しくいただくには暖かいうちにさっさっと食べるにかぎる。日本人には馴染みの炊き込みご飯とはいえ、芯が少しあるから、えびやムール貝が少なくなり、さめてくるとご飯がとたんに重たくなる。まわりをみても残している人のほうが多い。パエリアはバルセロナ、バレンシアなどカタルーニャ地方だけで食べられる料理なのか、それともマドリードやセビリアなどほかの地域でもよく食べられているのだろうか?パエリアの黄色の色つけに使われるサフランはラ・マンチャ地方のコンスエグラが特産地だそうだ。

バレンシアにはもう一つ美味しい食べ物がある。スペイン国内の消費の90%をまかなっているオレンジ。昨年イタリア南部を旅したときもオレンジの生しぼりジュースを沢山飲んだが、今回のスペイン旅行でも頻繁にオレンジジュースを注文した。値段は1.5~2ユーロ。パエリアを食べたのは街中のレストランだったが、街路樹はオレンジの木だった。日本では見られない光景である。ここに実をつけているのは苦いやつでマーマレード用のオレンジとのこと。翌日訪れたヨーロッパ最大規模を誇る中央市場にはオレンジがどさっと置いてあった(下の画像)。

市内観光で“カテドラル”や八角形のゴシック式鐘楼“ミゲレテの塔”を見た後この市場に入ったのだが、バスを降りると強烈な匂いで頭がクラクラしそうになった。市場の中をまわってみるとこの匂いの正体は豚の肉だった。匂いに敏感なのでいまだにチーズは苦手。

添乗員のIさんによるとバレンシア最大のイベント、“火祭り”が翌週に行われるらしい。火祭りに出品された張子のなかで人気投票で一位になった人形は博物館入りし、ずっと展示されるという。市役所の前の広場に大きな人形が数点集結していた。この祭りの様子を日本でTV報道してくれたらいいのだが。

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2007.03.16

バルセロナのアントニ・ガウディ

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久しぶりのスペインとはじめての国、ポルトガルを旅行してきた。A社の“情熱のスペイン、哀愁のポルトガル10日間”は昔から見慣れたキャッチコピーだが、この定番文句が旅心を掻き立てるのである。今回訪れたのは
★スペイン:バルセロナ→バレンシア→クエンカ→マドリード→トレド→ラ・マンチャ→コルドバ→グラナダ→ミハス→セビリア
★ポルトガル:エボラ→リスボン→シントラ・ロカ岬。
スペインではバルセロナ、マドリード、トレド、グラナダ以外ははじめて行くところだし、リスボンも含め期待の観光地が続く楽しいツアーだ。

では、まずバルセロナから。
バルセロナ訪問は3度目。前回が90年だったので、17年ぶりのスペインである。このツアーはバスでポルトガルまで移動するので一つの観光地であちらの名所もこちらの名所もというわけにはいかない。で、バルセロナは天才建築家、アントニ・ガウディ
(1852~1926)が建てた建築物の見学が観光の中心。メインディッシュの前菜として市街を一望できる“モンジュイックの丘”に行き、スペインという国の風景の目慣らしをする。写真撮影ポイントにつくまで現地の日本人ガイドさんがこの丘にあるオリンピック施設を説明してくれる。途中、“ミロ美術館”が見えてきた。前回はここを目指してバスの進行方向の逆からふーふーいいながら歩いたことを思い出した。

日本を発つとき現地の温度を気にしたが、スペインでも暖冬のようで、それほど寒くはなく安心した。市全体が見渡せる場所からは右に地中海、真ん中あたりに“サグラダ・ファミリア”の鐘塔が見える。遠くからではあるが3回目の対面である。“後でまた行くからね!”という感じ。“サグラダ・ファミリア”を観たくてこのツアーを申し込んだ人はすぐにでもあの塔まで飛んでいきたい気分かもしれない。

バスは坂を下ると地中海沿いの道路を通って、街の中心部に進んでいく。車窓から高さが60mもある“コロンブスの塔”をパチリ。昔はこの近くの岸壁に“サンタマリア号”が係留されていたが、確認できなかった。どこへ行ったのだろう?

だんだんバルセロナのお目当てであるガウディの建築物が近づいてくる。最初が波打つ壁面と青や緑の色ガラスに目を見張る“カサ・パトリョ”。24年前、ここを写真に撮っているのに全く記憶がない。グラシア通りで次に現れるのが上の“カサ・ミラ”。これは丁度バスが信号で止まったのでいいショットになった。交差点の四つ角に建っているから見映えがする。建物の形から“石切場”とも呼ばれているらしい。上のほうをみると人がいる。時間があれば中に入れただろうに。残念!

どのツアーでもガウディの作品で時間をかけてみるのは“グエル公園”と未完の聖堂“サグラダ・ファミリア”。“グエル公園”での見所は真ん中の“ドラゴン”と広場の曲がりくねったベンチ。2月9日の新聞にこのドラゴンが若い男に壊されたという衝撃の記事が載っていた。頭の先は欠けて周りを柵で囲っていたから、“これから見に行くのになんてことをしてくれたのだ!自分は一度見ているからいいが、楽しみにしている人もいるのに”と思わず、隣の方と顔を見合わせた。で、てっきり新聞に載ってた情況と変わりないだろうと思っていた。ところが、なんとドラゴンが完璧に修復されていた!!これには驚いた。こんなに素早い対応をしていたとは。はじめてみる隣の方の嬉しそうな顔をみて、ほっとした。

天井に鮮やかな色彩で太陽の円形装飾が施されている柱廊を通りぬけ、上にあがると大変楽しい広場にでてくる。波打つベンチは形もさることながら多彩色のタイルを砕き、また張り合わせる“破砕タイル技法”でコラージュ風につくられたモダンな模様に目を奪われた。明るい赤や青、緑、オレンジ色の組み合わせにはこのベンチの装飾を担当したジュジョール(1879~1949)の豊かな色彩感覚がいかんなく発揮されている。

“サグラダ・ファミリア”はグエル公園からそう遠くないところにある。真近に観るのは
1983年以来。四半世紀もたつから、どこからどういう風にみたのかよく覚えていない。当時は建設してから100年目にあたるのでそれを示すバナーがかけられていた。作業現場は建築は進んでいるのだろうか?と思うくらい閑散としていた。エレベーターで鐘塔を登り、高いところから聖堂全体を眺めたのはいい思い出。現在は観光客が増えているから、エレベーターで登るにはかなり時間がかかりそう。

現場も以前とは様変わりで、都会のビルの建築現場に入り込んだような感じである。当時とは違い、資金も集まり、自然石ではなくコンクリートを使ったり、CG解析などの最新設計で建設しているので作業スピードが上がり、2020年に完成の予定だという。

下の画像は“受難のファサード”の4本の鐘塔部分。樹木のような塔である。塔の先端の模様はヤモリの足のよう。ここにも色が輝くモザイクタイルが使われている。ガウディが最初に手がけた“誕生のファサード”からも写真を何枚も撮った。でも、家に帰りアルバムをひっくり返してみると前撮ったところと同じアングルが多い。ご愛嬌である。

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