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2007.01.20

江戸城展 これを見ずして江戸は語れない

662江戸東京博物館で開催中の“江戸城展”(3/4まで)はサブタイトルーこれを見ずして江戸は語れない、が効いているのか、会場はかなり混雑している。

このため、全部見終わるのに2時間近くかかった。観たい屏風をみて引き上げるつもりであったが、予想とは違い関心のある展示品がいくつもあったので、時間がたつのも忘れてみた。

一番関心が高かったのが江戸城ができてから3回建て直し、明暦3年(1657)正月の大火で焼け落ちた天守閣。図面、50分の1の模型、天守閣が描かれた江戸の風俗屏風、大型スクリーンに上映されるCG映像により立体的にかつ詳細に解説されているので理解はぐっと進む。天守閣の高さは60m。30mの松本城の天守閣模型が一緒に展示してあるから、そのスケールの大きさがイメージしやすい。

風俗屏風、“江戸図屏風”(国立歴史民族博物館)と“江戸名所図屏風”(出光美術館)は昨年、三井記念美であった“日本橋展”にも出品されていた。天守閣は明暦の大火で消失して以来、再建されることがなく、天守閣の無い江戸城のイメージが定着しているので、時代を遠く遡ってこんな天守閣だったと言われても現実感がない。が、CDや屏風でみる限り、圧倒的な威容を誇る建造物であったことは間違いない。城のリアルな出土品としては、中心部から発見されたという金箔が一部残った瓦片が興味深かった。金箔の瓦はもう1点あるらしい。

正月年始のため大名が登城する際の下馬先の光景を描いた右の“江戸城年始登城風景図屏風”(右隻部分)は思わず足をとめてじっくりみた。理由は愛読している佐藤雅美の江戸物小説(拙ブログ05/8/8)にでてくる“下馬先”の面白い話を思い出したから。

“下馬評”という言葉はこの“下馬先”からきている。江戸城へは大手門、内桜田門(右隻)と坂下門、西丸大手門(左隻)から入るようになっているが、門前で下馬しなくてはならない。藩主に随行できる家臣は限られているから、大半の家来は門前で待機することになる。で、殿様の帰りを待ってる最中、供の者があれやこれやと噂話をする。例えば“○○殿の屋敷で騒動があったとか。。”、“○○殿は御役を退かれる、その後は○○殿が就かれるそうだとか。。”

面白い話しとは。下馬先で大名の籠の交通整理を担当していたのが大座配や中座配。実際に列の順番や待機場所を指示して動き回るのは彼らに雇われている六尺手廻り(籠を担ぐ人足)。座配は公儀の役人ではなく、業務を委託された民間の業者で、現在でいえば、ホテルで開催された財界人の新年パーティーが終わったあと、出口の前で社長が出てくるのを待っているお抱え運転手にマイクで“○○株式会社様”と呼びかけているホテルの担当のようなもの。

この座配や六尺手廻りが下馬先を取り仕切っており、登城する大名や旗本など屁とも思ってなく、鼻息も荒かったそうだ。座配の協力がないと藩主の動きもままならなかったから、気の利く藩は盆暮れの付け届けを欠かさなかったらしい。ここで文化13年(1816)、ある事件が起きた。

遠州浜松六万石の井上河内守は百姓の女房を強姦し、騒動を起こしたが、家来が揉み消した。そして、ほとぼりが冷めるのを待って、河内守が登城する。内桜田門(右の画像の門)から登城しようと、橋にさしかかった時、六尺手廻りから“いよオ、密夫大名!”、“待ってました、強姦大名!”と野次が飛び、河内守はさんざん野次り倒された。さあー、大変!。公儀も穏便に済まそうとしてたのに、六尺手廻りが騒いで半ば公然の不祥事になってしまったので、やむなく河内守を罰し、痩せ地の奥州棚倉に国替えにした。下馬先では大名を野次り倒すほどの“がさつで不法”な振る舞いが罷り通りっていたのである。

この特別展に下馬先の屏風があったのは大収穫。思い出深い展覧会になりそう。

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